参議院選挙で自民党が歴史的大敗
2007年7月29日執行の第21回参議院議員通常選挙で、自由民主党は改選121議席中わずか3割の37議席の獲得にとどまる歴史的大敗を喫した。これは1989年の36議席に次ぐワースト2位の成績だったが、その後、同党から選挙違反で辞職した議員が出て、事後的に史上最悪の結果に並んだ。この参議院選挙は、6年前の「小泉ブーム」で自民党が64議席と大勝したときの議席の改選のためのもので、自民党の議席の目減りは予想されていた。焦点は非改選議席を含め、公明党と合わせて与党で参議院の過半数を維持できるかだったが、結果は自公の会派で242議席中105議席と大きく過半数を割り込んだのみか、自民党は参議院第1党の地位を、今回60議席を得た民主党に奪われた。93~94年の野党時代を含め、自民党が衆参のいずれかで第1党の座を明け渡すのは、初めてのことである。
自民党の大敗は、1人区で6勝23敗と大きく負け越したことによる。新聞各社の出口調査では、無党派層が民主党に流れ、これまで自民党の地盤であった地方の自民支持層も野党に投票したことが、今回の結果をもたらした。理由として選挙を控えて問題化した5000万件に及ぶ「宙に浮いた年金記録」問題、「政治とカネ」のスキャンダル、閣僚の失言や辞任などの「逆風三点セット」のほか、小泉純一郎前内閣の構造改革で疲弊した地方の自民党への不満も指摘されている。
さらに高度経済成長期に形成された自民党の支持基盤の解体と、政界再編成を経て、自民党に対抗し得る野党として育ってきた民主党の勢力伸長による二大政党化という、日本政治の変動が背景にある。
安倍首相の続投表明と内閣改造
自民党では参議院選挙での過去2回の大敗で、時の首相が退陣に追い込まれていることから、今回も大幅に議席を減らしたときは、安倍晋三首相は退陣するのではないかという観測が党の内外で語られていた。しかし選挙の当日、まだ開票作業中に安倍首相は続投を表明、安倍後継の候補の一人と目される麻生太郎外務大臣が積極的に続投支持に動いたほか、派閥のリーダーたちも異議を唱えなかった。衆目の一致する後継者がいないうえに、派閥のリーダーたちが挙党体制を名目に内閣改造での自派閥からの入閣を期待したためと言われた。
党内の一部からも退陣論が投げかけられるなか、首相は8月27日に内閣を改造し、発足時の論功行賞人事と「お友だち内閣」を一掃して、内閣を再スタートさせた。改造では、党役員人事も含めて、派閥リーダーなどベテランを配した重厚な布陣とし、その分、安倍カラーは薄れ、「何を目指す内閣か」との疑問も呈され、また麻生幹事長と与謝野馨官房長官の政権(AY政権)に変質したとの見方もあった。
安倍首相突然の退陣表明、後継に福田康夫氏
2007年9月10日、第168回臨時国会が召集され、安倍首相は所信表明演説で、「全身全霊をかけて、内閣総理大臣の職責を果たしていくことをお誓い申し上げます」と述べた。ところが中1日を置いた代表質問の直前になって、突如、安倍首相は退陣表明し、政界に激震が走った。首相の記者会見での理由の説明は、ほとんど支離滅裂だった。その後の検証報道などで、内閣改造後は身近に相談相手もいなくなり、体調も不調で気力が続かなくなったことなどが指摘されているが、前代未聞の内閣放り出しに、国民からも厳しい非難が渦巻いた。
自民党は直ちに後継総裁の選出に着手。当初は麻生幹事長が最有力とみられたが、ポスト小泉でも有力候補とされた福田康夫元官房長官が意欲を示すと、麻生派以外の派閥が雪崩を打って支持に回り、一夜にして福田政権の流れが固まった。
9月25日の首班指名選挙を経て就任した福田首相は、未熟さが目立った安倍首相と異なり、安定感のある政治手法に定評がある。一方で、71歳と高齢であり、また何かを実現したいという確固たる政治目標を有しているようには見受けられない。この点剛腕のイメージが付きまとい、政権交代を悲願としている民主党の小沢一郎代表とは好対照をなしており、二人が今後それぞれ与党と野党のリーダーとして、どのような政治ゲームを展開するか注目される。
「逆転参議院」で予想される激しい攻防
発足早々の福田内閣を待ち構えているのは、1955年の結党以降、半世紀以上にわたり自民党が占めてきた第1党の地位を、民主党に奪われた参議院での野党の攻勢。民主党は、参議院選後の臨時国会で、議長(江田五月が就任)のほか、議院運営の要となる議院運営委員長を獲得し、さらに外交防衛、厚生労働など予算委員長以外の主要委員長を手中にして、参議院の主導権を確保している。これまで参議院は「衆議院のカーボンコピー」と揶揄(やゆ)され、廃止論も唱えられてきたが、それは衆参を共に自民党が支配し、党の方針に従属させてきたためでもある。民主党が他の野党と協力して、衆議院からの法案を否決したり、独自の法案を可決して衆議院に送ったり、証人喚問を含む国政調査権を発動することなどの手段を駆使して、自公政権への攻撃の砦(とりで)とする意図を明確にしたことで、参議院の光景と衆参関係は一変する。
最初の攻防は、2007年11月1日で期限が切れるテロ対策特別措置法の延長問題で、同法に基づき海上自衛隊がインド洋で行っている多国籍軍艦船に対する給油活動の扱いが焦点になる。民主党は給油活動自体に反対しており、対米関係への配慮から、継続を目指す政府与党との激しい攻防が予想される。
日本政治はどこへ向かうのか
戦後の日本政治は、敗戦後10年を経て成立した自民党と社会党を中心とする、55年体制と呼ばれる政治システムの下で展開された。55年体制は、自由主義対社会主義の米ソの対立を中心とする世界の冷戦構造を、保守対革新の対立として国内政治に反映させた政治体制で、両勢力がそれぞれ自民党と社会党という単一政党に統合されていた(他に小政党の共産党)。55年体制下の対立は、1960年の日米安全保障条約改定をめぐる「60年安保」で頂点に達した。その後は高度経済成長の果実(豊かな税収による補助金や公共事業など)の配分が政治の主要任務になり、日本政治は「分配の政治」として成熟していった。
今日の日本政治の変動は、以上のような55年体制が、冷戦の終焉と高度経済成長の終息という状況変化により解体を続けている過程として捉えることができる。従来は自民党の固い地盤であった参議院選挙の1人区で、今回自民党が6勝23敗に終わったことは、この解体現象を象徴する出来事である。
いま日本政治が向かっている先は、パイを全員が納得できるように分ける「分配の政治」から、政策体系の選択と交代を伴う政権交代可能な政治である。90年代の政治改革による衆議院の選挙制度の改革を経て、政界再編成が進み、自民と民主の二大政党化が進行しているのも、このような政治の枠組みの変化に対応している。参議院選挙の結果は、このような日本政治のマクロ的変化を反映したものである。
天下分け目の総選挙
参議院で第1党になった民主党も、首相の優先的指名権をもち、政権の所在を決定する衆議院では480議席中113議席を占めるに過ぎない。同党が単独または連立で衆議院の過半数を獲得するには、総選挙を経る必要がある。このため衆議院の解散の時期と総選挙での勝敗の行方が、今後の政治の最大の焦点である。