強化路線をひた走る安全保障戦略
2006年9月に成立した安倍晋三内閣の下で、日本の防衛政策の制度的枠組みの変更が試みられてきた。まず、07年1月に防衛庁が防衛省に移行したことである。日本を取り巻く安全保障環境の変化を受けて、・防衛政策に関する企画立案機能、・緊急事態に対処するための体制の充実強化、・国際社会の平和と安定に取り組むための体制の整備、をめざしたものである。ただし、自衛隊の最高指揮監督者は首相のままで、文民統制(シビリアン・コントロール)に変更はない。省移行関連法案が、衆参両院で9割以上の賛成で成立したことが示すように、この省移行には内外で強い反発はなかった。
安倍首相はまた、外交と安全保障に関する官邸の司令塔機能の強化をめざした。まず06年11月に、首相を議長とした有識者らによる「国家安全保障に関する官邸機能強化会議」が設置された。さらに、07年2月に同会議が提出した報告書をもとに、4月には安全保障会議設置法の一部改正法案が提出された。
これによると、現行の安全保障会議を国家安全保障会議に変更し、そのメンバーを首相、外務相、防衛相、内閣官房長官の4人とする。この時点では財務相が含まれていない。現行は財務相、総務相、経済産業相、国土交通相、国家公安委員長を含む9人。また、この国家安全保障会議の下に事務局長以下10~20人規模の事務局を置き、特定の事項については別に専門会議を設置する。こうした改正は、アメリカの国家安全保障会議(NSC)を参考にしたものだが、当初の想定よりも相当小規模な改編にとどまった。さらに、国家安全保障会議事務局長と首相補佐官(国家安全保障担当)との関係が明確でないなどの問題点も残っている。
安倍首相はさらに、集団的自衛権の行使に関する解釈の再検討をめざした。07年4月には「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」が設置され、平和維持活動(PKO)での武器使用と後方支援、ミサイル防衛、公海上での米軍艦船に対する攻撃への対処、という具体的な四つの類型に即して検討を行っている。
国際情勢の変化にどう対応するか
日本を取り巻く国際環境にも、いくつもの大きな変化が生じている。まず、北朝鮮は06年7月のミサイル連射実験に続き、10月には地下核実験を断行した。技術的にはこの実験は失敗だったとする見方もある。だが、北朝鮮による一連の挑発行為は、日本の安全保障にとっては深刻な脅威である。しかも、対北朝鮮政策として、日本は拉致問題の解決という独自の課題も抱えている。ところが、同年11月のアメリカ中間選挙で与党・共和党が大敗を喫してから、ジョージ・W・ブッシュ政権は旧来の対北朝鮮強硬路線から対話重視の路線に大きくかじを切った。アメリカは、イラク情勢の悪化に苦悩しているうえ、北朝鮮によるミサイルや核の開発を、当面は自国にとって切実な脅威とみなしていない。ここに、北朝鮮政策をめぐって、日米の認識と政策の格差が広がり、それに北朝鮮がつけいる可能性が生じている。日米の一層の政策調整が求められるところである。
他方で、日本の安全保障戦略の裾野を広げる展開も見られた。07年3月の日豪首脳会談で、両国とアメリカとの安全保障協力強化をうたった共同宣言がまとめられ、3月には初の日米豪防衛首脳会談が、そして、6月には日豪で初の外務・防衛閣僚協議(2プラス2)が開催された。自由や民主主義、基本的人権という価値観を共有する諸国と、日本はアジア太平洋地域での安保協力をさらに拡大・深化させようとしている。ただし、これが排他的な対中包囲網と誤解されないよう細心の外交的配慮も必要である。
また、07年5月には米軍再編特別措置法が成立した。これは在日米軍基地や訓練施設などの再編を促進するべく、受け入れ先の地方自治体に交付金を配分し、在沖縄米海兵隊のグアム移転経費の一部を日本が負担するための枠組みを定めたものである。これもグローバルな米軍再編の流れに、日本として積極的に対応しようとするものであり、今後に地元自治体との調整が求められている。ただし、その巨額の財政負担については、日本国内でも異論は少なくない。
注目される法改正の行方
07年7月の参議院選挙で、与党・自由民主党と公明党は予想以上の大敗を喫して、参議院での多数の議席を喪失した。安倍内閣の求心力は急速に低下し、ついには9月に突然の首相辞任に至った。このため、上述の国家安全保障会議設置のための法改正はさらに先送りされそうだし、集団的自衛権の解釈変更問題でも、すでに公明党は消極的な姿勢を示しており、大きな進展は望めない状況である。さらに、07年11月1日にはテロ対策特別措置法が失効する。インド洋での米海軍の活動を引き続き支援するには、同法の延長が不可欠だが、民主党は延長反対の姿勢をとっており、日米安保関係の深刻な焦点になっている。