刑事裁判はなんのためにあるのか
皆さんは、刑事裁判(注)の手続きの中で納得できないと思うことってありませんか。たとえば、なぜあんな凶悪犯に弁護士がつくんだとか、なぜ犯人が、責任能力によって無罪になったり、時効によって処罰されなくなったりするんだとか。とりわけ、被害者の救済よりも、犯人の人権や更生を考えすぎているんじゃないか、という疑問は、多くの方がもつのではないかと思います。確かに、犯罪被害者の目線で見ると、納得できない制度が刑事裁判の手続きの中にはいくつもありそうです。今回は刑事裁判の意味を、被害者の人権と加害者の人権の関係から、考えてみたいと思います。
皆さんは、刑事裁判はなんのためにあると思いますか。そんなもの、犯人を処罰するための手続きだろと言われそうですね。確かに、犯人が厳罰に処せられることで、被害者の処罰感情が満たされ、気持ちが落ち着くことがあるかもしれません。
重大犯罪が起こるとどうしても、その被害者や遺族の方の気持ちになって、犯人を厳罰に処してほしいと思ってしまいます。その感情自体は自然のものであり、否定することはできません。
ですが、そのことと刑事手続きの意味を混同してしまっては、近代裁判制度が成り立たなくなってしまうので注意が必要です。実は、刑事裁判は、被害者の復讐心を満足させるために被害者と加害者が対決する場ではありません。まず、私たちは、刑事裁判という公的な制度の問題と、復讐心という個人的な問題を区別することから始めなければなりません。
刑事裁判は、一見、被害者の無念を国家がはらしてくれる制度と見えるかもしれませんが、そうではありません。刑事裁判制度は、けっして被害者の復讐を国が代わって行うためにあるのではないのです。
昔は被害者や遺族の報復の感情を満足させるためと考えられたこともありましたが、近代の刑事裁判はそのようには考えていません。個人のレベルでの仕返しを認めてしまっては、社会が混乱するだけですし、それを国家が代わりに行うことも現実的には不可能です。
ちょっと冷たく聞こえるかもしれません。しかし、人の自由を奪ったり苦痛を与えたりする刑罰というものを正当化するためには、合理的な目的が必要であり、それが個人の応報感情を満足させるためというのでは足りないのです。結果的に個人の応報感情を満たすことはあるかもしれませんが、そのために刑事裁判制度があるわけではありません。
裁判は、そこに被告人として登場している人が、真犯人つまり加害者かどうかわからないから行われるのです。被告人が否認している場合はもちろん、仮に自白している場合であっても、真犯人かどうか慎重に調べなければなりません。間違った判決によって、刑罰が最大の人権侵害になる危険があるからです。
無罪推定という原則
さらに言うと、刑事事件の法廷は、そもそも加害者が誰かを見つけ出す場ですらないとも言えます。裁判所は検察官が起訴してきた事実があるかないかを証拠によって判断するだけです。裁判官が確信をもてば有罪、少しでも疑わしければ無罪です。裁判はそれで終わりです。積極的に真犯人つまり加害者を見つけるのは、法廷における裁判官の仕事ではありません。あくまでも検察官が起訴した事実について、受け身で判断するだけなのです。刑事裁判では無罪の推定という基本原則が働きますが、これもわかりにくいかもしれません。たとえば、10人の凶悪犯が捕まって裁判になったとします。9人は真犯人ですが、1人だけ無実の人が紛れ込んでしまいました。でも誰が無実かわかりません。さあ、あなたが裁判官ならどうしますか。
全員有罪か全員無罪か、究極の選択が迫られていると仮定しましょう。全員有罪にすれば、社会の治安は維持されるかもしれませんが、1人の無実の市民が犠牲になります。憲法は国家や社会のために個人を犠牲にしてはいけないとして「個人の尊重」を憲法の根本に置きました(13条)。ですから、この場合には全員無罪として釈放しなければなりません。これを無罪の推定といいます。
これでは凶悪犯が社会に戻ってきてしまいます。ですが、その不都合の方が、無実の人が犠牲になるよりもまだましだと考えるのです。裁判は人間が行います。どうしても間違いが起こります。そのときに、真犯人を取り逃がす間違いと、無実の人が処罰されてしまう間違いと、どちらの方がより許容できるかという選択の問題です。文明国家では後者があってはならないとして、無罪の推定原則が生まれたのです。
まだ裁判中であるにもかかわらず、被告人を凶悪犯と決めつけて攻撃したり、その弁護士をテレビで評論家が批判したりするようでは、国民による裁判の監視ではなく、国民によるリンチになってしまいます。
あなたも裁判員に選ばれる
2009年からは裁判員制度が実施され、皆さんも裁判に参加する可能性が出てきました。そのためにはまず、こうした無罪の推定などの基本原則をしっかりと理解しておかなければなりません。被害者の立場でものを考えることはとても大切なことですが、裁判の場面では冷静に理屈で考えないと判断を誤ります。加害者を処罰してほしいという被害者の気持ちは、真犯人にこそ向けられているはずです。真犯人かどうかわからない法廷の被告人に対してその怒りをぶつけても、それは筋違いです。
一般市民である裁判員は、この被害者の思いを、感情ではなく、理性と知性によって自分のなかでうまく整理しなければなりません。その力量をもっていないと、国家による最大の人権侵害の加害者になるおそれがあります。
世界の潮流に逆行して、日本は厳罰化の傾向にあり、依然として死刑制度がありますから、国家による殺人に加担することになりかねません。犯罪被害者の救済と刑事裁判の役割を区別できる国こそが、真の民主主義国家であることを、しっかりと理解しておかなければならないのです。
次回は被害者の人権について考えてみましょう。
刑事裁判
被告人が行ったとされる犯罪事実の有無を確定し、刑罰を決める手続きのこと。
憲法13条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。