「原爆疎開」を決断した新潟県知事・畠田昌福(畠田冴子氏提供)
新型爆弾が落とされる。全市民を疎開させるしかない――。
太平洋戦争末期の1945年8月、広島と長崎に相次いで原子爆弾が落とされたことを知り、新たな被害を未然に防ぐため、全市民を郊外へと強制疎開をさせた自治体があった。
日本海側の主要都市・新潟市(当時の人口約17万人)である。「原爆疎開」という前代未聞の決断を下したのは、当時の新潟県知事だった畠田昌福(まさとみ)。各府県の警察部長やインドネシアの司政長官を務めた警察官僚であり、現在のように選挙で選ばれる民選知事ではなく、内務省から派遣された官選知事だった。
歴史研究者や当の新潟市民にもほとんど知られてないこの終戦直前の数奇な出来事に光を当てたのが、新聞記者でルポライターの三浦英之さんが刊行した『1945 最後の秘密』(集英社クリエイティブ)だ。取材の大きな転機となったのが、すでに他界していると思われていた、畠田知事の三男である哲男氏へのインタビュー(哲男氏はインタビュー後に他界)。当時のインタビューに立ち会い、生前の畠田知事をよく知る哲男氏の妻・恭子さんが、著者の三浦さんと畠田知事の思い出について語り合った。
畠田恭子さんと三浦英之さん
三浦英之 大変ご無沙汰しております。随分と時間がかかってしまいましたが、このたびなんとか、畠田知事が決断した「原爆疎開」の記録を世に発表することができました。
畠田恭子 我が家に取材にいらしたのは10年以上も前ですものね。なかなか本にならないので、もうとっくにお蔵入りになってしまったのかと思っていました。
三浦 最初にご自宅に伺ったのは2010年だったと思います。その後、東日本大震災が発生し、私は被災地や海外勤務でなかなか手がつけられなかったのですが、この問題(「原爆疎開」)についてはどうしても書き残しておかなければいけないと思い、ずっと取材を継続していたんです。当時はまだ哲男さんもご存命で……。哲男さんに作品を届けられなかったことが本当に心残りです。恭子さんにもいろいろとインタビューを助けていただきました。
改めてお伺いいたしますが、恭子さんにとって、義父にあたる畠田知事はどのような人物でしたか?
新潟の知事公舎で撮影されたとみられる畠田昌福知事とその家族(畠田冴子氏提供)
畠田 夫の哲男もそうでしたが、義父も本当に何も話さない人でした。夫とは黙って碁ばかり打っていましたね。「昔は威厳があって近寄りがたい人だった」と他の人からはよく聞きました。どんな仕事をしていたのか、私にはわかりかねますが、警察のお仕事で人の命に関わるような仕事が多かったでしょうね。だから、家庭では仕事の話はまったくしませんでした。私が結婚したときはもう新潟県知事は引退していて、横浜で助役などをしていた頃でしたから、いつもただニコニコして、好々爺のお年寄りでした。夫も義父もまったく話さない人だったためか、義母はわりとおしゃべりな性格で、よく「二人が何も話さないから、私がこんなにおしゃべりになったのよ」と笑いながら話していました。
三浦 哲男さんも無口な人でしたね。でも、恭子さんがうまく話をつないでくれて、インタビューでは本当に貴重な話を聞くことができました。畠田知事は戦争末期、新潟に新型爆弾が落とされるかもしれないということで、新潟で暮らしていた全市民を郊外へと「原爆疎開」させるわけなのですが、当時の記録は新潟県庁にも新潟市役所にもほとんど残されていないんです。内実を知っている関係者も、私が取材を始めた2000年代にはすでに他界してしまっていた。畠田知事には3人の息子がいて、長男と次男もすでに他界。三男の哲男さんもすでに亡くなっていると見られていたのですが、ふとしたきっかけで都内でまだご存命であることがわかり、2010年にあわてて取材にうかがったのです。
畠田 そうでしたね。