「犯罪被害」は社会全体の問題
前回は、刑事裁判はなんのためにあるのかということと、無罪の推定について考えてみました。今回は、被害者の人権と弁護士の役割について検討してみましょう。憲法は、被害者の人権についてはどのような態度を取っているのでしょうか。もし、憲法が、被疑者・被告人の人権ばかり保障して被害者の人権を保障しなかったとしたら、こんな理不尽なことはありません。また、自分の最愛の人を無惨に殺されたら、自分の手で復讐してやりたい、それができないなら、一日でも早い死刑によって自分の復讐心を満たしたいと思うことを、非難することは誰もできません。
被害者や遺族の方の、犯人に復讐したいという気持ち、精神的、金銭的なさまざまな損害。こうした被害者や遺族の方の負担を、どのように考えたらいいのでしょうか。こうした損害や心理的な負担をなんとかしなければいけないという前提に立ちつつ、私たちは憲法がどのような制度を想定しているのかを考える必要があります。
まず、犯罪被害者の苦難を被害者だけに負担させるのは、そもそも公平ではありません。なぜなら、犯罪被害は単なる個人的な不幸の問題としては片づけられないからです。
以前は個人的な不幸の問題として片づけられ、社会の同情やまわりの人たちの自発的な援助によって、被害者は自分たちの力で苦難を乗り越えようとしてきました。しかし、犯罪の被害に遭ってしまう危険は、今日の社会において、誰もが直面する可能性のあるものであり、けっして人ごとではありません。
犯罪の原因の相当な部分は、社会の構造にあるとも言われます。家庭環境や社会環境が犯罪に及ぼす影響については、さまざまな研究がなされています。古くから、社会政策は最善の刑事政策であるとも言われてきました。まさに社会のひずみが犯罪の遠因になっているのです。
とすると、犯罪被害を、これまでのように単なる個人的な不幸の問題として片づけてしまうことは間違っています。そうではなく、社会全体の問題として受け止めるべきであり、皆で等しく引き受けて、国民全体でなんらかの負担をしていくべき問題となってきているのです。金銭的な問題も、国民全員が税金の形でなんらかの負担をすべきですし、精神的なサポートも受けられるように、立法や行政が十分に配慮すべき問題なのです。()
憲法は被害者救済を保障している
ところが、現在の犯罪被害者救済制度は、まだまだ不十分です。犯罪被害に遭った方へ給付金として数百万円が支払われますが、あくまでもお見舞い金にすぎません。補償金ではありませんから、重傷を負って、後遺症などに苦しんでいる方の治療代はもとより、休業補償、精神的苦痛の慰謝など、まったく公的にはなされません。交通事故と同じ扱いですから、保険の支払いも難しいのが現状です。一方、多くの場合、犯人には資力がありませんから、損害賠償を求めることもできず、数千万円に及ぶ治療費を被害者が負担せざるをえないのが日本の現状です。
外国のなかには、犯罪被害者補償制度が確立していて、日本の10倍近くの補償が支払われる国もあります。
こうしたことを放置しているのは憲法のせいでしょうか。いいえ、憲法はしっかりと被害者の人権を保障しています。プライバシー権は13条で、知る権利は21条で、生活の権利は25条で保障しているのです。あとはそれを具体化し実現する政治の問題です。つまり、福祉政策の問題として、国会や行政によってきちんと解決されなければならないのに、それが行われていないことが問題なのです。
対立しない「被害者の人権」と「被告人の人権」
このように、被害者の人権をしっかりと国が実現していくということと、被告人の人権を守るということは、まったく別の問題です。被害者の人権と被告人の人権は衝突するように見えても、まったく次元が違うのであり、そもそも対立するものではないことを理解しておかなければなりません。そして、刑事司法のシステムがうまく機能するためには、検察官、弁護士、裁判官がそれぞれの役割を果たすことが必要です。検察官が処罰を求め、弁護士が被告人の利益を守り、裁判官が中立的な立場から判断する。こうした役割分担が行われてはじめて、司法制度は機能します。
最近のマスコミの報道には目に余るものがあります。マスコミが、あたかも凶悪犯人を弁護するのは正義に反しているかのように、弁護士を攻撃することがあります。テレビのコメンテーターが、被告人が有罪であることを当然の前提に、弁護士を批判します。
車には、アクセルもあればブレーキも必要、もちろんハンドルも必要です。3つそろってはじめて安全運転ができるわけですから、みんながアクセルつまり検察官になってはいけません。それはとても危険なことです。
ブレーキとしての弁護士や、ハンドルとしての裁判官が、きちんとした役割を果たすことが重要なのです。私たち国民も、みんなが犯人を処罰する検察官になってしまってはいけません。むしろ一歩離れて、こうしたシステム全体がうまく働いているかどうかをしっかりと監視していくことが必要なのです。それこそが、主権者たる国民の役割です。
憲法13条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
憲法21条
①集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
②検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
憲法25条
①すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
②国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。