歴史が証明する国家の衰退と繁栄
世襲の問題を考えるために、300年ほど前のヨーロッパを見てみよう。政治的近代化が本格化する前、近世と呼ばれる時代である。絶対主義・王権神授の名の下に、国王の地位は多くの国で世襲されていた。政府の機構は「家産官僚制」と言われる仕組み、つまり主要な役職がある種の私的な所有物のようになり、親から子へと受け継がれる形となっていた。この仕組みが最も典型的に発達したのが、ルイ14世を頂点としたブルボン朝のフランスである。
そして、主要国の中で、最も早くこのパターンから離脱し、議会を軸とする国政運営と、官僚制における人材の競争的な登用の仕組みを発達させたのがイギリスである。両国が覇権を争った100年余りの「長い18世紀」の歴史が証明したことは、国土も人口も4倍の規模を誇ったフランスが敗れて大革命へと至り、イギリスは大英帝国の建設に成功したという事実である。
何が重要かは明らかであろう。もちろん、イギリスでも土地所有貴族が権力を握り、まさに権力の世襲が大規模に見られた。しかし、イギリス海軍の圧倒的な優秀さと議会下院が示した国家財政を支える力とは、ブルボン朝フランスが象徴するものとは正反対の、競争がもたらす新しい人材、新しい知識、そして新しい産業によって成立していた。古い慣習や社会的身分ではなく、競争こそがその柱であった。つまり、世襲の仕組みから競争の仕組みに変革すること、これこそが長期的な国家の盛衰に大きな影響を及ぼしたのである。
ハードルが高い日本の選挙参入制度
現代日本を見てみると、国会議員の世襲が選挙競争に対する深刻な抑圧となってしまっていることは疑い得ない。そしてその理由は、要するに、選挙の立候補へのハードルが極めて高いことであり、さらにその背景には三つの制度的な条件がある。第1は公職選挙法である。日本では、公選職の兼任が禁止されているばかりか、立候補に先立って辞職する必要がある(あるいは自動的に失職する)。市長であり国会議員といった形で公選職を兼任できるフランスはもちろん、アメリカの大統領選挙でも上院議員や州知事が長い期間の予備選挙に参加する場合、彼らの地位は保たれたままである。当選したオバマも対抗馬だったクリントンもマケインも、すべてこの仕組みに守られていた。
第2の制度条件は公務員法である。日本では、公務員が公職の選挙に立候補する場合には、その前に公務員を最終的に辞職しなければならない。ところがフランスやドイツでは、公務員としての身分を保持したままで立候補することが可能で、当選した場合には身分を維持したままで、一時的に職務を離れる形で議員として活動することができる。しかも、ドイツでは市町村の議員と公務員との兼任が可能で、フランスでは、選挙に当選した公務員は派遣身分で国会議員に就き、昇進や昇給、退職年金の権利を十分に確保している。
第3に、日本では政治家や公務員の世界に限らず、社会全体で見ても終身雇用ルールが強いことである。しかも中選挙区制の下で、政党間競争ではなく議員の個人後援会の組織力が競われる選挙となっていたことも、極めて深刻な要素となっていた。これらの条件が重なり合った結果、日本では選挙への参入障壁が他国に比べて圧倒的に高くなってしまったのである。
選挙は一種の競争市場である。しかし日本では、候補者の供給というサプライサイドがかなり極端な寡占状態に陥り、市場としてはうまく機能しなくなっていた。要するに、政治の世界への人材供給が、さまざまな制度のゆがみの結果として極端に細くなっていたこと、これが世襲問題の本質である。
政党にとって「死に至る病」
しかし、問題はこの次元にとどまらない。自由民主党内の年功序列型の人事が問題をさらに深刻にしていたのである。自民党では、当選回数に応じた年功昇進が制度化されていた。初当選から約15年間はいわば見習い期間であり、有力者としての活躍はこれを終えてからであった。この仕組みの下では、初当選時の年齢が決定的な意味を持つ。30歳で初当選した二世議員は、見習い期間を終えた時まだ50歳になっていない。ところが、「たたき上げ」の議員の国会初当選は普通50歳に近づいてからであり、見習い期間の終了は65歳ごろとなる。「いざ勝負」となった時にまだ20年ある世襲議員と、もうほとんど時間切れの議員とは決定的な差がある。近年、ほぼすべての自民党幹部が世襲議員によって占められていたが、それはある意味当然の帰結だったのである。やや極端に言えば、日本国の総理大臣という地位に到達できるのは、わずか500家系ほどの関係者にすぎない状況に至っていた。これこそが自民党における世襲問題がもたらした究極のゆがみである。
人間の社会には競争が必要である。しかも、質の高い、実質的な競争こそが大切である。世襲を擁護する人の多くは、「選挙民が自由に選んだ結果だから問題ない」と言う。しかし、実質的にほとんど独占企業と言ってもよいほどの支配力を持つ議員とその後援会が、世襲によって既得権のネットワークともども温存されるならば、とても公平な競争があるとは言えない。300年前のヨーロッパにおいて、貴族勢力が自己の支配権を永続化させようとして用いた論理と何らの違いもない。自由市場経済の世界になぜ「独占禁止」の考え方が不可欠なのか、考えてみれば明らかである。
フェアとは言えない選挙で選ばれることを何とも思わない人たちに、「公的」なものへの関与を語る資格などあるのだろうか。そう、世襲の横行は政党にとって「死に至る病」である。そして、一国の政治の質をおとしめ、政治が未来を語るのではなく、過去に縛られることとなる深刻な原因なのである。