批判する前に理解しておくこと
ポピュリズム政治が注目されるようになってから久しい。日本では、大阪の橋下徹市長、東京の石原慎太郎都知事だけでなく、かつては小泉純一郎元首相や田中真紀子元外相などもポピュリストと呼ばれた。海外でも、イタリアのベルルスコーニ元首相、フランスのサルコジ元大統領など、ポピュリスト政治家は洋の東西を問わず、枚挙に暇がない。それではポピュリズム政治は、なぜここまで先進国で共通の現象になっているのだろうか。そもそも、ポピュリズムとは何を意味するのか。まずは、ポピュリズムを批判する前に、それがすぐれて民主政治をめぐる難問であることを理解することが必要だ。
ポピュリズムもその他の多くの政治現象と同じように、複数の理由から生まれる。以下に互いに関連する短期的・中期的・長期的理由をみてみよう。
台頭の背景にある政治不信
ポピュリズム政治が台頭する背景には、短期的には政治不信の増大がある。政治不信は国によって濃淡の差があるが、各種意識調査や世論調査をみると1990年代以降の大きなトレンドとなっている。例えば、議会を信頼しているとする日本人は約20%、行政を信頼しているとするのは30%強に過ぎず、これは他国と比較しても極めて低い水準にある(「世界価値観調査」2005年)。既存の政治が有権者の信頼を失っているのは、政策の選択肢が狭まっていることなどがあるが、いずれにしても議会政治家が信頼されない場合、有権者の期待は自ずと「アウトサイダー」的な政治家に集まる。そして、この「アウトサイダー」は、既存政治での資源(地盤や政治資金)を欠くゆえに、世論一般に広く訴えかけるような政策を掲げていくようになる。これがポピュリスト政治家がパッチワーク的で「いい所取り」の政策を主張する理由のひとつである。
有権者の声が届かなくなった
次に、中期的な理由として、既存の政治システムが必ずしも有権者の関心や意識を十分に反映できていないことが挙げられる。60年代から、多くの先進国では階級・イデオロギー闘争が一段落し、新しい社会運動が勃興、フェミニズムやエコロジーなどの個人の生活にまつわる争点が重要視されるようになってきた。既存の大政党はこうした細かな政治的意識に十分に応えられず、政治マーケティングや利益配分(バラマキ政治)によって有権者を引き留めようとしてきた。しかし、政治マーケティングはむしろ有権者の不信感を募らせ、低成長時代が定着すると配分する利益もなくなってしまった。ここで、今の政治に自分の声が十分に届いていないとする「サイレント・マジョリティー」が誕生し、彼らの声を代表するとするポピュリスト政治家が誕生してくることになる。
ポピュリズムは定期的に出現する
最後に長期的理由をみてみよう。誇張を恐れず言えば、世界史は民主化の歴史だと言える。フランス革命から始まり、19世紀半ばの市民革命、第二次世界大戦を経て冷戦の崩壊による民主主義の定着、さらには2011年の「アラブの春」に至るまで、「自分の運命は自分で決める」という自己決定権の追求が歴史の原動力になってきた。ポピュリズムは、有権者と政治を媒介する様々な制度(議会や行政機構)が「民意」をゆがめていると告発することで、求心力を発揮する政治運動である。ポピュリズムという言葉は、もともと「人々」を指すラテン語の「ポプルス」から派生している。それゆえ、政治に民意を直接的に反映させよ、と主張するポピュリズムは、民主政治において定期的に出現する。歴史的にみて、ポピュリズムは経済構造が変動し、有権者と政治の関係が変化する時代に現れる。そのプロセスの只中に私たちはいるとみることもできるかもしれない。
民主政治が機能していない
小泉元首相はかつて「小泉は大衆迎合と批判される。しかし大衆を信じないで政治家は務まらない」と言ったことがある。その是非はともかく、ポピュリズムを単に「大衆迎合」として済ましてしまうわけにはいかない。「共同体の一員として有権者一人ひとりが自分の運命を決定する」という民主政治の原則からすれば、政治家はむしろ「民意」を過不足なく代表しなければならないからだ。そうでなければ、かつてのような長老政治家による「密室・談合政治」が跋扈(ばっこ)しかねない。つまり、ポピュリズムによって民主政治が危機にさらされるのではなく、民主政治が十分に機能していないからこそ、ポピュリズムが現れるのである。
功にもなり罪にもなる
ポピュリズムには功罪がある。それは、既存の政治に「ノー」を突き付け、自身が象徴するとする「民意」を既存の政治の場に繰り入れようとすることで、民主政治のバージョンアップに貢献する。特に1990年代以降、先進国の政治は日本を含め、グローバル化と既存政党の硬直化によって大きな政策的転換を実現することが難しくなり、さらに社会的・経済的な格差が拡大する傾向にある。こうした現状に対する不満が蓄積した結果としてのポピュリズムは、民主政治の起爆剤となり得るだろう。しかしその反対に、ポピュリズムは既存の政治が対処できない無理難題を突き付け、意思決定システムを破壊し、混乱を招くだけに終わる可能性もある。その場合は、ポピュリズムによって一時的に吸収された政治不信がさらに大きくなることが予想されるから、事は深刻だ。
もっとも、重要なことはポピュリズム政治がよって立つ原理である「人々」は、私たち自身であるということだ。言い換えれば、ポピュリズムは私たちの問題なのである。もし私たちがポピュリズム抜きに民主政治に革新をもたらし、その名にふさわしい政治を実現できるのならば、ポピュリスト政治家に頼る必要はない。その方途を私たちが見つけることができた時、初めてポピュリズム政治を「窒息死」させることができる。