この事件を考える上で気をつけなければならないのは、すべてを加害少女ひとりの問題としてしまうのも、逆にすべてを家族や環境の問題と考えるのも間違いにつながる、ということだ。
加害少女は現在、精神鑑定を行うために医療機関で過ごしているが、おそらく小学校時代の給食への異物混入事件、中学時代の小動物の解剖、父親への殴打事件、そして家族に「人を殺してからだの中を見てみたい」という願望を話していたことなどから考えて、「まったく問題ない」という結果が出るとは考えにくい。これはあくまで一般論だが、動機が不可解な少年事件の1990年以降の精神鑑定例では、少なからぬ頻度でいわゆる発達障害に相当するという結果が出ているが、少女にもそういう診断がつくのではないだろうか。おそらくその中でも、対人面での双方向的なやり取り(対人相互反応)に問題を示す自閉症スペクトラム(ASD)と診断されるのではないかと思われる。
この問題を持つ人たちは、常識的には了解しがたい独自のロジックに従って考えを実行に移すことがあり、それが“目的に合わなくなっても計画を変更しない”“悪気なく加害行為をする”といった深刻な結果につながってしまう場合もまれにあるのだ。もちろん言うまでもないことだが、この人たちのほとんどは誠実で律儀で折り目正しく、むしろ犯罪とは遠い存在なのだが、次に述べるような不幸な偶然が重なったときに、ごく一部のケースでその生真面目さゆえの行動が犯罪に発展してしまうのだ。
では、その不幸な偶然とは何なのか。そのひとつが、今回の事件で見られたような急激な環境の変化や理解してくれる存在の消失だ。加害少女は幼い頃からかなり個性的であったようだが、両親に理解されて愛情を受けながら恵まれた環境で子ども時代を過ごした。ところが、少女が中学三年生のときに母親ががんであっという間に亡くなってしまう。そして父親は突然、交際を始めた年下の女性と再婚したという。少女にしてみれば、その「生母の消失」と「新しい母の出現」を頭では理解できても、心で受け入れるのは困難だったのではないかと思われる。
また、父親の再婚相手の女性は、少女の個性やこれまでの問題行動をどのくらい理解した上で結婚したのだろうか。ただでさえ多感な時期の娘がいる男性との再婚はむずかしいと考えられるが、このケースでは「私がこの子を受け入れて育て上げる」というよほどの覚悟が必要だったはずだ。もしかすると父親は結婚を急ぐあまり、娘の問題についてきちんと説明していなかったのではないか、とも考えられる。
さらに、被害者となった少女との関係も、一般的な思春期の問題として考えることもできる。中学生くらいの女の子は、意気投合した同性の親友と“チャム”と呼ばれる双子のような関係を築き、世間や異性に背を向けて自分たちの独自な世界を作り上げることがある。これは、成長の一過程で見られる通常のことであり、高校に入る頃になるとお互い趣味も違ってきたり異性に目が向いたりして、自然にこの関係は解消される。もしかするとこの少女は、高校入学後も被害少女を「この子だけはわかってくれる」と思い込んでいて、その目が外に向くことに強い不安を感じた可能性もある。
このように、今回の事件を考える上では、「この少女ならではの問題」と「どこにでもありうる思春期の問題」とを分けて、ひとつひとつを検証する必要がある。精神鑑定の結果は原則的に公開されないが、要旨はおそらく家庭裁判所を通じて公表されるだろう。結果を見守りたい。