ウクライナへのガス供給停止の余波
2009年1月17日、ヨーロッパ、旧ソ連各国から首相はじめ閣僚級の代表団がモスクワに集結した。ウクライナ経由のロシア産天然ガスの円滑な供給が、彼ら共通の関心事であった。長年、ロシアの国営企業ガスプロムは、ウクライナ向け天然ガスの価格設定の不備や、代金未払いを指摘してきた。しかし、ロシアとウクライナの溝は埋まらず、年が明けるとともに供給が停止されていたのである。
問題は二国間にとどまらなかった。
ロシア産天然ガスはソ連時代からヨーロッパ向けに輸出されているが、その8割がウクライナのパイプラインを経由する。ウクライナへの供給停止とともに同国内のパイプラインが09年1月7日までに段階的に止められた。
ヨーロッパ最大のロシア産天然ガス消費国であるドイツをはじめ、中東欧やトルコなどパイプライン下流の国々への供給も順次止まった。厳寒の冬を迎えていたこれらの国々に住む人々にとって、ガスが行き届かないことは死活問題であった。1月11日までには中継輸送をめぐる国際監視態勢に関する関係国合意が見られたが、長期的なガス供給のあり方については未解決のままであった。
このような背景をもって開かれた上記のモスクワでの会議の翌日(1月18日)、ロシアのプーチン首相とウクライナのティモシェンコ首相は、2010年からヨーロッパ諸国並みの供給価格とすることで合意に達した。ヨーロッパ向け供給が完全に復旧するまで約2週間を要したことになる。
生かされなかった3年前の教訓
ロシアにしてみれば、これらの措置は市場経済化の当然の帰結であった。旧ソ連諸国間では、社会主義時代の名残から安価に天然ガスが取引されてきた。しかし、ガスプロムが利潤を追求する以上、適正な価格により安定した資源の取引が求められていたのである。天然ガスをめぐるロシアとウクライナとの軋轢(あつれき)は今回が初めてではない。06年初めにも、従来価格(1000m3あたり50ドル、以下同単位)の3倍超の値がロシア側から提示されたことから二国間の交渉は決裂。ウクライナへの天然ガス供給は一時期停止され、このときも影響はヨーロッパ全域に及んだ。ロシア側は、より安価であった旧ソ連・中央アジア諸国産の天然ガス(当時60~65ドル)と抱き合わせてウクライナに供給することで、何とか価格を抑えようとした。
しかし、時間の経過とともに中央アジアの天然ガス価格も上昇し、この仕組みにもゆがみが目立つようになる。ロシアから比較的安く入手した天然ガスを、今度はウクライナが西側に高く売って利ざやを稼いでいることや、パイプラインの途中でガスが抜き取られていることが指摘され、ロシア側の不信がつのった。さらに、価格上昇に追いつけないウクライナ側の未払いが目立つようになったことから、09年に再びロシアは強行措置に踏み切ったといえるだろう。
EU(欧州連合)は3年前の危機を教訓に、ロシアとエネルギー協力の枠組みを構築する姿勢を示していたが、ロシアの政治的影響力の拡大を懸念する中東欧の加盟国からの反対から交渉は順調ではなかった。09年の「ガス紛争」は、ガス供給をめぐる既存制度の疲労がもたらした結果であったといえる。
ウクライナの混乱に乗じるロシア
国内産業構造の改革が進まないウクライナでは、急激なガス価格の上昇が自国経済の発展をおびやかしている。ウクライナ政府は、資源を輸入する相手国の多角化や、火力発電の主力を石油や石炭に切り替えるなどして、ロシア産天然ガスへの依存から脱却した仕組みを作ろうとしている。しかし、莫大な投資が必要とされ、現状では絵に描いた餅(もち)に過ぎない。08年夏以来の世界同時不況が、このようなウクライナ経済へのさらなる痛手となっている。「ガス紛争」はウクライナ国内の権力闘争とも密接に関連している。かつて民主化に向けて共闘していたユーシェンコ大統領とティモシェンコ首相は、ロシアからのガス供給をめぐって対立を深めている。09年1月のモスクワでのティモシェンコ首相による価格合意後、ユーシェンコ大統領はそれを首相による個人的決定と非難した。またプーチン首相とティモシェンコ首相の合意における「密約説」を受けて、ウクライナの国営ナフトガス社に3月4日、大統領側の治安機関が強制捜査を行った。ナフトガス社は、上記の09年1月合意でのガスプロムの交渉相手となった会社で、ティモシェンコ首相の配下にあるといわれる。
しかし、世論調査では大統領への支持率は10%を切っており、もはやユーシェンコ大統領の続投は望めないだろう。09年内に行われるだろう大統領選挙では、ティモシェンコ首相を含め、多かれ少なかれロシアとの妥協路線をはかる候補者が有力だと見られている。ロシアとしても、より友好的な指導者がウクライナに誕生することは好ましいことだ。次期大統領を決めるカードは、ガス供給や経済支援を含めて、実はロシア側の手の内に多くあるといえる。
資源は商品なのか、政治的な道具なのか
安定的なガス供給はロシアとEU共通の利益である。EUがロシア産に次いで依存している北海・ノルウェー産の天然ガスが枯渇傾向にあることから、EUにとってもロシアとの経済関係は死活的な問題である。両者は、混乱するウクライナを迂回(うかい)するパイプラインの経路を新設することも視野に入れた戦略をもっている。ただし、現時点では、ロシアが主導するパイプライン計画である「ノース・ストリーム」(バルト海経由、11年操業予定)と「サウス・ストリーム」(黒海経由、13年操業予定)の実現性が高い。EU主導の「ナブッコ」(コーカサス~トルコ経由)は、ドイツが反対の意思を明確にしつつあることから、雲行きが怪しい。中央アジア産の天然ガスの輸出も、ほとんどロシアを介する経路に依存せざるを得ないのが現状である。
ロシアにも弱点は多い。経済を支えてきた原油価格が低下し、回復基調には程遠い。プーチン首相の経済政策に対する批判も高まってきた。08年夏の南オセチアでの紛争以来、ロシアは「武人的外交」を展開しようとしていたが、結局は欧米と妥協し「商人的外交」に落ち着かざるを得なくなっている。天然ガスを含めた資源供給は、ロシアにとって当面は政治的な駆け引きのための道具として活用できる余地が大きい。しかし、消費国からの批判を避けるためにも、ロシアには「商人的外交」が求められている。必要なのは、過去の失敗から学んだ、天然ガス供給をめぐる多国間協力の枠組みの構築である。