人権侵害のリスクを専門家たちが指摘
2015年8月に決裂したTPP交渉が大筋で合意した。TPPは06年に発効した「P4(シンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランド)協定」を発展させた協定で、日本は13年7月に、最後の12カ国目として参加した。TPP交渉といえば、農産物や自動車の関税率の交渉過程など、貿易・経済の問題ととらえられがちである。しかし、実はその陰で見過ごされているのが、人権問題である。
15年6月2日、10人の人権専門家が連名で、「TPPの人権への悪影響を懸念する」との異例の声明を発表した。この専門家とは、国連が任命した「障がい者の権利に関する特別報告者」「健康の権利に関する特別報告者」「文化的権利に関する特別報告者」「裁判官と弁護士の独立性に関する特別報告者」「食糧に対する権利に関する特別報告者」「安全な水に対する権利に関する特別報告者」「先住民の権利に関する特別報告者」などであり、彼らは声明のなかで、TPP合意が交渉国の人びとの生命、食糧、水、衛生、健康、住居、教育、科学、労働基準、環境などの人権保障に多面的かつ深刻な悪影響をもたらしかねないことを強く警告した。
国連人権理事会から任命された独立専門家がこれほど多くの人数で、一つの貿易投資協定に関して人権侵害のリスクを懸念し、声明を発表することは極めて異例なことだ。
これを受けて、同月23日には、交渉参加国のうち、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、日本、ペルー、メキシコ、チリ、マレーシアの9カ国の人権専門家らエキスパートが、それぞれ懸念を表明する共同声明を公表した。市民社会からの懸念の声は各国で広まるばかりだ。この際、私も別記のようなコメントを寄せた。
打撃の大きい、食と医療
TPPは21分野におよぶ広範囲なジャンルを対象としている。それらには、自由貿易促進のための関税の撤廃・削減だけでなく、非関税障壁の撤廃、さらには企業の知的財産権の保護などの問題まで持ち込まれ、結果、交渉国における人々の生命や身体、健康にかかる基本的人権に現実的に多大な影響を及ぼす条項が数多く盛り込まれようとしている。 10人の国連人権専門家らは、健康保護や食の安全の基準引き下げ、貧困の深刻化により、先住民、障がい者、高齢者など社会的弱者の人権に深刻な影響が及ぶことに強い懸念を表明している。例えば、(1)食の安全に関するリスク、(2)安価の医薬品を手に入れられなくなるリスク、(3)日本の国民皆保険制度形骸化のリスク、などがその具体例である。
まず、食の安全に関するリスクとしては、海外から輸入した動植物に関する各国独自の検疫検査(衛生植物検疫)が、自由貿易を阻害するとみなされれば、基準を緩和しなければならないというリスクがある。大筋合意には、植物検疫が貿易に対する不当な障害をもたらすことがないように、との取り決めが書かれている。日本は、狂牛病(BSE)、鳥インフルエンザなどについて比較的厳しい検査体制を講じているが、それが許されなくなる可能性がある。
また、遺伝子組み換え食品についての表示規制も、自由貿易を阻害するので撤廃されるリスクがある。私たちがスーパーなどで買う食品が遺伝子組み換え食品かどうかわからないという事態になるかもしれない。
政府が大筋合意後の10月5日に公表した文書「環太平洋パートナーシップ協定(TPP協定)の概要」の第7章には、「日本の制度変更が必要となる規定は設けられておらず、日本の食品の安全が脅かされるようなことはない」と書かれているが、今後の運用は依然不透明である。
また医薬品の分野では、知的財産権保護を強化する制度が導入され、特許期間の延長に関する制度や、新薬のデータ保護期間に関するルールが定められるという(第18章)。製薬会社が開発した薬の特許やデータの保護が過度に強化されれば、後発で安価なジェネリック薬の製造・販売が認められないことになる。貧しい国の人たちが安価なジェネリック薬を入手することができなくなり、薬が入手できないために治療可能なのに命を落とすという事態が生じかねない。
報道では、バイオ薬品のデータ保護期間について、最短5年、最長8年となったと報じられているが、未だ不透明な部分が残る。
さらに、公的医療保険に対する民間保険の参入、営利企業の病院経営参入、混合診療の解禁が進むため、日本の国民皆保険制度が崩壊・形骸化する危険が指摘されてきた。日本は、国境を超えるサービス貿易の規定について、保健、社会保障、社会保険等について包括的な留保をしているが、日本医師会では交渉細部の詰めまで慎重に見守っていく姿勢を崩していない。
このように、合意は、食糧や健康という人間にとって最も大切な権利、食べ物や、薬をはじめとする医療などに身近な部分に、深刻なダメージをもたらしかねない要素を含んでいる。
日本に危機をもたらすISDS条項
さらに心配されているのは、TPP交渉に、投資家対国家紛争解決制度(ISDS : Investor-State Dispute Settlement)の条項が盛り込まれる見込みであることだ。ISDS条項とは、企業や投資家が、貿易協定の投資に関する規定に反すると考える協定参加国政府の措置によって、損害を被ったとし、投資国先政府を国際仲裁手続等に訴える制度である。
北米自由貿易協定(NAFTA)では、すでに同様の条項をもとに、巨額賠償請求が相次いでいる。そのため、ISDS条項によって、各国が投資家の利益を優先し、自国民の人権保護政策(経済活動に対する規制措置)をとることを萎縮させるという深刻な結果を生んでいる。
TPPが締結されれば、例えば狂牛病の検査が厳しすぎるとアメリカの牛肉輸出関連企業に訴えられたりするケースもありうる。
アメリカは日本とは比較にならない訴訟社会であり、アメリカの投資家から、日本に対する仲裁・訴訟等が次々と提起される危険がある。日本でも訴訟リスクを恐れ、企業や投資家の利益を優先し、国民の権利、特に食糧、医療、健康、環境などの人権保障のための制度や規制を撤廃してしまう危険がある。
秘密裡に進む交渉が最大の問題
このように、TPP交渉は深刻な人権への影響をもたらすことが懸念されている。ところが、最大の問題は、交渉プロセスが公開されないということである。TPP交渉はこれまで秘密裡に行われ、日本においては、国民はもちろん、国会議員にすらその内容が明らかにされてこなかった。私たちの日常生活と人権に密接に関係する取り決めが、全く秘密裡に、情報公開も国民的議論もないまま進められてきた。
影響を受けるであろう人々は交渉過程から完全に排除され、協議の機会もなかった。日本のJAなど、様々な団体がこの点に強く抗議している。大筋合意後、細部の内容確定が待っているが、今後も秘密裡な交渉が重ねられていくことには重大な問題がある。
政府の対応を監視し、声を上げよう
6月2日・23日に出された二つの共同声明からは、国連や人権専門家から噴出する危機感が切々と伝わってくる。