フランス国民が議員経験のない新大統領を、極めて消極的に「選んだ」理由とは? ともに「反EU」を掲げた極右と極左の大躍進。選挙期間を通じて湧き起こったデモや暴動。フランスを揺るがした大統領選を第1次投票から振り返る。
フランスのEU離脱は避けられた
ルペンは「大統領に就任した場合、フランスの欧州連合(EU)からの離脱に関する国民投票を行う」と宣言していた。イギリスとは異なり、フランスはEU創設国の一つ。したがってフランスが離脱した場合、EU崩壊の可能性すら浮上する。これに対しマクロンはEU支持派である。マクロンの当選・ルペンの敗北によって、フランスのEU離脱(FREXIT)の可能性がひとまず遠のいたことは、欧州にとっては朗報である。だがマクロンの前途は多難である。伝統的な政党に属さず、議会に基盤を持たない大統領がフランスに君臨するのは初めてのことである。
さらに、4月23日に行われた第1次投票の結果を分析すると、イギリスやアメリカに似た大都市と地方の格差、多くの有権者がEUに対して抱く深い不信感が浮き彫りになっている。
マクロン勝利は「静かな革命」
フランスでは、第1次投票の結果は「フランスの政界を揺るがす大激震」と呼ばれている。実際今回の選挙は、「史上初」という代名詞のオンパレードである。まずマクロンは、第2次世界大戦後のフランスで最年少の大統領だ。フランス人たちは、2017年まで一度も選挙を経験したことがなく、議員として働いたこともない政治家を、エリゼー宮に大統領として送り込む。彼が率いる政治運動組織「En Marche!(オン・マルシュ=「前進している」の意)」は、議会に基盤を持たない。それでも過半数の有権者たちは、変革を望んだ。この投票結果には、人々の、伝統的な政治エスタブリッシュメントに訣別し、フランスの政治と経済を改革しなくてはならないという固い決意が感じられる。
マクロンがこれまで歩んできた人生は、フランスのエリートとしても珍しいサクセス・ストーリーである。1977年にパリ北部に位置するアミアンで、両親とも医師の家庭に生まれたマクロンは、パリ政治学院(シアンス・ポ)で哲学を学んだ。彼は2006年から09年まで社会党の党員だった。08年から12年まで投資銀行ロスチャイルドで働き、食品企業ネッスルがアメリカの製薬会社、ファイザーの乳児用食品部門を買収する取引に参加した。
マクロンが急速に政治の舞台に登場したきっかけは、フランソワ・ミッテラン元大統領の経済問題についてのアドバイザーだったジャック・アタリ教授に見出されたことだった。マクロンはアタリの推薦でフランソワ・オランド大統領のアドバイザーとなり、14年から2年間にわたり経済大臣を務めた。マクロンの路線は穏健な社会民主主義であり、EUを重視する。
政治家としての手腕は未知数
経済大臣として最も重要な任務は、フランス企業の競争力を強化して、失業率を削減することだったが、社会党左派や労働組合の反対により、改革努力は難航した。彼はオランド政権で企業減税などを含む経済改革案の策定に携わったが、その内容は国民議会での議論の中で、大幅に弱められてしまった。マクロンはマニュエル・バルス首相との対立により、16年に経済大臣の座を辞任した。彼は同年「En Marche!」という新政党を創設し、伝統的な大政党には属さずに大統領選挙に立候補した。つまりマクロンの政治家としての手腕は、まだ立証されていない。経済大臣を務めたのもわずか2年間であり、その間に大きな功績を挙げたとは言い難い。さらにマクロンは、経済の建て直しに失敗したオランド政権の一員だった。このことも、マクロンにとってプラスではない。彼が大統領の座に押し上げられたのは、多くの有権者が他の政党の候補者やパフォーマンスを受け入れがたいと感じ、「他の候補よりはマクロンが良いだろう」と考えた結果である。つまり仕方なくマクロンを選んだ有権者が多かったのだ。
その事実は、左派系日刊紙「リベラシオン」が4月26日に公表した世論調査にはっきり表れている。このアンケートによると、マクロンを選んだ有権者のうち、「マクロンこそ大統領になるべきだ」と彼を積極的に選んだ有権者の比率は58%。これに対し、「他の候補者が気に入らないので、仕方なくマクロンを選んだ」と答えた有権者は41%にのぼる。マクロンについては、他の候補者に比べると、「仕方なくこの候補を選んだ」と答えた人の比率が高い。つまりマクロンの支持基盤は、他の候補に比べると固まってはいない。この数字から、政治家としての手腕が未知数のマクロンに対する、有権者の強いためらいが感じられる。
決選投票でマクロンが圧勝したのは、共和党と社会党がマクロンに投票して、ルペンの大統領就任を阻止するように有権者に呼びかけたからだ。5月7日には、「マクロンとルペンのどちらも気に入らないが、ルペンのような過激な政治家が大統領になるのは良くない」と考えて、やむを得ずマクロンに票を投じた人が多かった。フランスでは、どちらの選択肢も悪いことを「コレラとペストの間の選択だ」と表現するが、この言葉は多くの有権者の感情を的確に表している。決選投票で棄権した有権者の比率は約25%に達するが、これは1969年以来最も高い数字だ。
二大政党の衰退が追い風
つまりマクロンの勝利を間接的に可能にしたのは、フランスの伝統的な二大政党・共和党(旧UMP=国民運動連合)と社会党の凋落である。候補者の質があまりにも低かった。これらの二大政党がどちらも決選投票に進出できなかったのは、戦後初めてである。共和党のフランソワ・フィヨンにとっては、数々のスキャンダルが躓きの石となった。彼は数年にわたり、妻のペネロープと2人の子どもを議会職員などとして雇用するという架空の契約によって、数十万ユーロにも及ぶ多額の公金を騙し取った疑いで検察庁の捜査を受けている。フィヨンは選挙期間中に、支援者に対して「私は過ちを犯した」と謝罪したが、大統領候補は辞退しなかった。
またフィヨンが支援者から高額なスーツを贈与されていたことも明らかになった。彼の発言からは、1着1万3000ユーロ(156万円、1ユーロ=120円換算)とも報じられた高級スーツを贈られることに、罪悪感を抱いていないことが窺われる。もしもドイツの政治家であれば、この二つの醜聞のような問題が明らかになったら候補を辞退するだろう。私は選挙期間中に伝えられるフィヨンの醜聞を耳にして、共和党がこの人物の候補を取り下げないことに、驚いた。フィヨンは多くのフランス市民が不信感を抱く、腐敗した政治家の象徴である。
また社会党のブノワ・アモン候補の得票率はわずか6.36%で、ルペンの3分の1にも満たなかった。この低得票率は、同じ党に属するオランド大統領が経済の建て直しに失敗したことに対する、市民の抗議である。オランドはフランスの政治史上最も人気が低い大統領だった。選挙期間中の公約の大半を実行に移さなかった。改革を試みても市民や企業の反対に遭遇すると、すごすごと取り下げた。オランドが大統領を務めた5年間に、フランスの失業率を下げることはできず、9.8%から10.1%にじりじりと上昇している。イスラム過激派によるテロについても、実効性のある対策を取れなかった。このためオランドに対する支持率は、16年末には約11%に下がっていた。