2024年12月、韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領(当時)が非常戒厳を宣布してから1年が過ぎた。非常戒厳は市民の抵抗と国会の決議によって阻止され、尹大統領は弾劾・罷免された。非常戒厳から1年となる2025年12月3日、李在明(イ・ジェミョン)大統領は「民主主義の回復力を世界に示した」と特別声明を発表し、平和的な手法で民主主義を守った国民を称えた。
その中心にいたのは20代、30代の若者たちだった。
私は、非常戒厳宣布から尹大統領の罷免という一連の出来事を、韓国社会が再び「広場」を必要とした瞬間だったと考えている。非常戒厳という非常手段は、約6時間で終わったが、若者たちにとっては、これまで積み重なってきた不信や疎外感を一気に可視化する引き金だった。
今年5月に韓国で出版された書籍『広場その後 ヘイト、二極化、世代論を超えて』(イ・ジェジョン他著、文学トンネ・刊。未邦訳。編集部注:本記事における訳文は砂上氏による)は、非常戒厳後の「広場」に集まった若者たちの声を丹念にすくい上げている。若者たちがなぜ立ち上がり、彼らはどんな民主主義を目指しているのかを、本書の一部を抜粋しながら考察する。

『広場その後』
非常戒厳の宣布とその後
本論に入る前に今回の非常戒厳宣布について振り返っておきたい。尹大統領は12月3日夜、テレビ演説で非常戒厳を宣布した。野党勢力を「北朝鮮追従の反国家勢力」と非難し、国政が麻痺し、国家秩序が崩壊寸前だと主張。これを受け、「戒厳司令部布告令」が出され、国会や地方議会の活動、デモ・集会などの一切の政治活動が禁止された。突然の非常戒厳に野党だけでなく与党「国民の力」からも強い反発が起き、議員らは国会に集まり、翌4日午前1時ごろ非常戒厳解除の決議が全会一致で可決された。その後、同日午前4時半ごろ、尹大統領は宣布を撤回した。こうして非常戒厳はわずか6時間で収束した。
非常戒厳宣布は、韓国社会にとって単なる政治的暴走ではなかった。それは軍事独裁と戒厳が結びついた痛ましい記憶、とりわけ1980年の「光州事件」を呼び起こした。
1979年10月、朴正熙(パク・チョンヒ)大統領(当時)が暗殺され、軍人の全斗煥(チョン・ドゥファン)がクーデターで実権を握った。民主化を求める動きが拡大すると、全斗煥は1980年5月17日、非常戒厳を全国に拡大した。韓国南西部・光州市では民主化を求めて市民や学生が立ち上がったが、戒厳軍が市民に発砲してこれを弾圧した。
1987年の韓国の民主化以降に生まれた若者世代は、非常戒厳を実体験としては知らない。しかし、文学や映画、ドラマを通して、それが何をもたらしたのか学んできた世代でもある。ノーベル文学賞作家ハン・ガンの小説『少年が来る』(邦訳はクオン、2016年)は、光州事件を題材にしている。生存者が事件後もPTSDや罪悪感に苦しむ姿を通して、非常戒厳という非人道的な状況がもたらした深い傷を描いている。
だからこそ、今回の非常戒厳に対する反発は、単なる現政権への怒りにとどまらなかった。これは「過去に引き戻されること」への拒絶であり、「これ以上、民主主義を空洞化させない」という世代的な意思表示だったのではないか。
そして非常戒厳宣布直後から、多くの市民が抗議の声を上げた。非常戒厳が解除された後も、ソウルを中心に全国各地で連日、尹大統領の辞任や弾劾を求めるデモや集会が続いた。
最終的に尹大統領は2025年4月4日、憲法裁判所により罷免され、内乱首謀の疑いで起訴され、現在裁判が続いている。
