世界の流れは「画一」から「個別」へ
先進国での教育は、決められた知識を画一的に伝えることから、それぞれの子に合った教育を行う方向に動いてきている。学力観も、特定の知識・技能を身につけていることから、未知の課題に対応できることへと変化している。PISAとよばれるOECDの国際学習到達度調査も、この新しい学力観に基づいている。個性を尊重するには、単に少人数学級を実現すればよいのではない。授業の方法、教科書のタイプ、生徒への対応などで、子どもが直接見えるところにいる人たちが、判断力と裁量権を担っている必要がある。
OECD教育局指標分析課長のシュライヒャー氏は、PISAで成功している国々では、権限・責任が学校現場に落とされているという。
よい例として、フィンランドは1990年代に検定教科書と視学制度を廃止し、学校の裁量権を増やしたのち、急に学力を伸ばした。
いっぽう日本では、「個性の尊重」や「教育の活性化」が言われてきたが、権限・責任を現場に委譲することが伴っていない。いまでも、教科内容の決定権は文部科学省が持ち、学習指導要領が改訂されるたび全国一斉の変化が起こる。指導要領が変わるとともに、検定教科書も授業時間数も一斉に変わる。
しかし、多くの先進自由主義国では、国がここまで教育の細部に関与していない。たとえばアメリカだったら、国としての学習指導要領が存在せず、地方分権になっている。保護者・住民の教育に対する主権者意識が強く、教育は自治的に行われている。
イギリスやフランスだったら、学習指導要領に相当する国家基準はあるが、それをどのように教えるかは学校と教師に任されている。検定教科書は存在せず、教科書の出版は自由であり、教員には特定の教科書を使う義務はない。このように、先進自由主義国では国が教える内容のあらましを決めても、教科書や教え方に関与しないのが普通である。
教科書は自由出版、自由採択が大勢
主要国の教科書制度をまとめたものが次の表である。自由出版、自由採択の国が多いことがわかる。教科書は、授業のタイプに大きな影響がある。仮に、理想的な教科書があって、内容豊富で読むだけでわかるとしよう。すると、教師の仕事はそれを生徒に読ませるだけでいいはずであり、授業力は必要ない。
教科書検定のある国は、「正しいこと」や「覚えるべきこと」を定めて生徒に注入する傾向があり、その教科書に基づく授業は注入型になりやすい。特に、東アジア諸国の場合は、高校進学、大学進学の競争が激烈であり、国定または検定の教科書の修得度が競われる。学校は注入型教育に力を注ぎ、生徒は効率のよい注入を求めるようになりやすい。
本来、教科書は、出版社と教師とが創意工夫を重ね、現場の中で育っていったときによいものができてくる。フィンランドの教科書を見たが、子どもと教師にとっての使いやすさを大事にして作られていた。フィンランドで、教科書の自由出版、自由採択が大きな意味を持っていたことがわかる。
日本では歴史教科書の記述が近隣諸国と摩擦を起こすことが問題になるが、むしろ検定による国の統一見解があるから摩擦が起こるのである。
文部科学省の間接指揮体制
戦後の日本では、教育は地方分権とされていたが、実質的には文部省(当時)が学校の全国基準を作る権限を使ってかじ取りをし、教育委員会がそれを執行していた。学習指導要領と教科書検定もその一部である。教育は地方自治が建前であるが、政治に左右されるのを防ぐため、一般行政と分離する方針が取られ、知事や市長に指揮されない部局である教育委員会が担当することになっている。ところが教育委員会では、1956年以降、民意による教育委員選出を廃止した。結果的に、教育では住民からの信任を問われる役職がどこにも存在しなくなっている。
そのため、文部科学省─教育委員会─公立学校は、地方自治とは別立ての体系となり、そこでは文部科学省のコントロールが大きな力を持っている。これらの関係を表したのがである。このシステムは次のような問題を持っている。
(1)上意下達の指揮体系になっているので、問題があったときに、自律的に発見し自律的に解決する能力に乏しい。
(2)保護者・住民に対して責任を負わない。保護者・住民も学校に対して無責任になりがち。
(3)学校マニュアルに相当するものの多くが法令の形になっている。公務員には法令順守の義務があるので、改善・改革が起こりにくい。
権限と責任を学校と教師に委譲すること、教育の自治をつくることが、日本教育の大きな課題である。