無責任体制はなぜ生まれたか
教育委員会は、“委員会”の名称を持つが、審議会のようなものではなく、自治体の文化・教育を担当する行政機関である。教育と政治が一体化するのを防ぐため、一般行政と分離されている「行政委員会」の一つで、首長もこれを指揮できない。教育委員会は、戦前に国家と教育が一体化していて、軍国主義教育を防げなかったことへの反省から、昭和23年(1948)に設置された。そのときの基本構想は、教育を完全に地方分権化し、文部省を純粋な指導・助言のための機関にすることであった。
教育委員会は地方公立学校を管理する最高責任者として作られた。しかし、できたばかりの教育委員会にはまだ十分な運営能力がなかったため、文部省に主要権限を集めた暫定運営体制ができた。
その後、教育の国家管理を強める方向の中で、この暫定運営体制をなし崩し的に定着させてしまったのが、戦後の教育行政システムであり、今もそのシステムは続いている。そのため、教育委員会は表向きは教育の最高責任者でありながら、実質権限は弱体であり、その存在理由がよくわからないのである。
日本の教育委員会は、アメリカの教育委員会をモデルとして作られた。形だけはアメリカをまねているが、渡されている権限がアメリカよりはるかに少ない。
アメリカには日本の文部科学省に相当する強大な中央官庁が存在せず、教育委員会が教育行政の頂点にある。アメリカの教育委員会の権限は大きく、学校の基準、教育内容の基準、予算、人事を一手に握っている。独自の財源まで持っている。
いっぽう、日本の場合は、文科省に学校の設置と運営の基準、教育内容の基準などの決定権がある。自治体の関与も強い。そのため、日本の教育委員会は、単なる執行機関の性格が強い。せっかく有識者たちによる教育委員を置いても、精神論や抽象論で終わりやすいのである。
日本では、教育施策の責任者がはっきりせず、無責任体制が生じている。
文科省指揮の構造
昭和20年代後半から、文部省は、指導・助言者の立場のまま、教育委員会へのコントロールを強めた。そのルートが三つある。一つは、学校の運営規格を定める法令群である。文部省は法律や省令を定めて実質指揮を執った。その構造が今も残っているため、教育では、いちいち文科省におうかがいを立てたり、法律や省令を変えないとできないことが多く、柔軟性が低いのである。
二つ目は、教育委員会は首長の指揮も受けず、住民の選挙の洗礼も受けない存在であるのに、文科省だけが法令を定め、指導・助言できる立場にあることである。文科省は法律と予算をつかさどる中央官庁なので、指導・助言は、実質的な命令として働きやすい。
三つ目は、補助金に伴う学校規格の標準化要求である。
これらはすべて間接指揮であり、主体は教育委員会としたまま文科省が学校の運営や教育内容を定めるため、教育の責任者が教育委員会なのか文科省なのか不明瞭になっている。
民意反映の欠如
日本の教育行政の最大の欠陥は、住民から信任を問われる役職が、文科省から教育委員会、学校に至るまでどこにもないことである。そのため、教育は結果に責任を負わず、上から言われたことにばかり対応する。首長が民意を反映していると考えられがちだが、首長は教育を指揮できないし、結果に責任を負っていない。
教育では、住民代表を選出する場がないので、意見を戦わせて保護者・住民の総意というものを形成していくことができないし、私が住民代表ですという人間も存在しない。いっぽう、教育委員会や学校は「ご意見は拝聴します」としているから、保護者・住民はばらばらと相矛盾することを言い、ときに常識外れな要求を突きつける。教育委員会と学校は、どこかに対応しようとすると他からの反対に出合い、結局誰にも対応できなくなるのである。
現在、公選された首長が教育委員を任命しているのだから、民意反映は保たれているとされている。しかし、首長は政治の代表として選ばれたのであり、教育の民意代表者であるとすることは無理がある。また、一人の首長が数人の教育委員すべてを任命できることも、民意の反映であるかどうかに疑問を持たせる。
存続か廃止か
教育委員会の存廃論議も出ているが、それぞれの持つ問題を丹念に考えないといけない。教育委員会を廃止して、学校を自治体の直営とする方法もある。この場合の問題は、首長が校長の人事権を持つと、校長が首長の意向をうかがうようになること、教育政策が選挙のたびに変わることである。
これを防ぐには、学校に保護者代表を含む運営理事会のようなものを設け、この理事会に校長の任命権を渡すのがよい。西欧諸国では普通に行われている学校運営方法である。これは、校長が学校に対して責任を取るようになり、保護者の意向が反映されやすい。
教育委員会を存続させるのであったら、民意反映の仕組みを作ることがどうしても必要である。教育委員公選制を導入し、その教育委員たちが教育長を選定するのが、アメリカ型をモデルにした教育委員会をもっとも生かすだろう。ただし、文科省権限をもっと委譲することを考えないと、教育委員会の形骸化は止まらない。
いずれにせよ、各自治体の条件によってできることは変わるので、現在のように地方教育行政の仕組みを一律にせず、地方に決定権を委ねるのがよいであろう。