公費支出が抑えられればそれでよいのか?
2011年10月、腎臓がん患者が、未承認の免疫療法と保険診療の併用を求めた訴訟で、最高裁判所は混合診療禁止を支持する判決を下した。この裁判を担当した大谷剛彦裁判長は、「保険医療の安全性や有効性の確保と、財源面からの制限はやむを得ない」との見解を示している。ところが、最近になって混合診療の規制緩和を再び議論し始めたのは、増え続ける国民医療費を抑制するためだ。正確には、自由診療を選びやすくして保険診療を削減し、公的医療保険や税金からの費用支出を抑えるためである。保険からの医療費給付にキャップをかければ、国民医療費全体は増えても公費は抑制できる。
ただ、これは難しい。高齢化が進む日本で、現状の保険医療を維持するには、いずれ大幅な負担増は避けられないからだ。現実的に国民皆保険を守るには、負担を増やして給付を削減するしかない。前者は高齢者の自己負担のアップ、後者は医師の処方せんがなくても買える大衆薬(OTC)の拡大などで現実化している。
近い将来に議論が避けられないのは、治療効果は高いが、高額な医薬品を保険収載する、つまり公的医療保険が適用される医薬品に指定するかどうかだ。とくに最近開発された新薬は驚くほど高い。アメリカのアレクシオンファーマ社が開発した血液難病の特効薬「ソリリス」(一般名エクリズマブ)を治療に用いた場合、1年間の薬代は約5000万円。10年にアメリカで承認された前立腺がんワクチン「プロベンジ」(一般名シプリューセル-T)が日本で承認されれば、その接種費用は患者1人あたり930万円となる。
このような治療法を、際限なく公的医療保険でカバーし続けることは不可能だ。
本来、医学的に有効であることと、費用を保険でまかなう保険償還とは別次元の話である。ところが日本では「有効性が証明された治療法・薬剤は厚生労働省が承認し、保険償還される」ことになっていた。こんなことができたのは、当時は国民がみな若く、財政状態もよかったからだ。
早晩、有効性が証明されても、あまりに高額な薬剤は、保険収載できない日がやってくる。そうなった際には、混合診療の規制問題の議論は避けられない。
混合診療が禁止となった理由とは
そもそも、混合診療を禁止とした目的は何だろうか?最大の目的は、悪徳医師が情報格差を利用し、患者に不適切な治療を強いるのを防ぐことだ。医師と患者に情報格差がある以上、一定の規制は必要である。しかしながら現在、混合診療の規制緩和を求める患者の多くは、状況がわからないまま治療を受けさせられたわけではない。
私は、混合診療は運用次第で、患者の選択肢を増やす手段になると考えている。むしろ、一律に禁ずるほうが弊害は大きい。それは医療が日進月歩で、不確実だからだ。厚生労働省が「正しい治療」を決めることはできないし、どこまでリスクをとるかは、患者により異なる。また、治療は時間との勝負だ。柔軟に対応しなければ、患者ニーズに対応できない。
もちろん、混合診療の規制を緩和すれば、一部の医療機関が暴走する懸念もある。残念ながら、これまでに不心得な医師がいたのは事実だ。適切に運用されるためには、医師が積極的に情報を開示し、国民の信頼を得る必要がある。
では、混合診療の規制緩和に反対する人は、どんな意見を言っているのだろう。最右翼は厚生労働省や日本医師会だが、彼らの言い分は納得しがたい。
たとえば、保険財政の観点から問題を指摘している。「混合診療が一般化すると患者負担が不当に広がり、国民皆保険が崩壊する」といった理由だ。要するに、不心得者の医師が怪しい治療を高値で患者に押しつけたり、製薬会社も金のかかる臨床試験をやめて自由診療で済まさせようとする。その結果、金持ちしかよい医療を受けられなくなる、と考えている。
しかしながら、私が知る限り、これは検証されていない仮説に過ぎない。
むしろ現状こそ、混合診療を希望する患者には、保険診療分についても医療費の給付を行っていないのだから、経済的負担を増加させている、との見方も可能だ。現行の保険外併用療養費制度は、限定的に混合診療を認めた「特区」のような存在だが、これによって医療費が膨張したというデータはない。
未承認薬輸入の野放し問題が浮上
混合診療の規制緩和を、安全性の側面から懸念する人もいる。厚生労働省は「保険診療はそれだけで完結しており、対象外の診療が加わると、治療の効果に影響が出るおそれがある」とコメントしているが、これも説得力がない。たとえば、未承認薬の個人輸入に対する対応だ。財団法人医療科学研究所の辻香織氏は、海外で実績を上げている未承認薬を個人輸入するための許可証である薬監証明を用いて、その利用状況を調査した。2005年と少し古いデータだが、私の知る限り未承認薬の個人輸入実態を網羅的に調査した、唯一の研究だ。辻氏によれば、05年には1万2196件もの個人輸入があった。
厚生労働省は、混合診療は厳密に規制するのに、未承認薬の個人輸入は野放しである。海外における有効性、安全性の情報さえ提供していない。実際、05年には個人輸入で使われた、未承認の抗がん剤「ベルケイド」(一般名ボルテゾミブ)の副作用が問題となった。未承認薬を単独で使うぶんには安全性を問わず、保険診療と併用する場合だけ「評価しなければならない」という主張はおかしい。
未承認薬の安全性批判は、厚生労働省にもこたえたようだ。06年、同省は健康保険法を改正し、保険外併用療養費制度の中に先進医療制度を導入した。
この制度のもとでは、大学病院など一部の医療機関で厚生労働大臣が承認した治療を行う場合、混合診療が可能になる。ただ、施設も治療法も限定され、13年8月現在、109の医療行為が承認されているにすぎない。多様な患者ニーズに対応できていないし、そもそも大病院に通院できない患者は利用できない。また、医師不足が深刻な医療現場に膨大な負荷を与え、運用面にも問題を抱えている。
患者の視点に立って知恵をしぼる
一部の患者団体は「混合診療を認めると、ドラッグ・ラグ(海外で新薬が承認されてから日本で使用できるようになるまでの時間差)が悪化する」という。その理由は、海外の製薬会社が開発・販売している新薬が、日本で承認薬として国内開発されなくなるからだという。しかしながら、これも杞憂(きゆう)だ。前述の辻氏の調査によれば、個人輸入上位の55薬剤7141件のうち、44薬剤(80%)4713件(66%)が未承認薬だった。44の未承認薬の大部分は、欧米で最近10年以内に承認された新薬であり、すでに21薬剤3804件が日本での承認・申請段階に移行していた。
つまり個人輸入薬の多くは、日本でも開発後期であった。製薬会社が利益を追求するなら、患者にとって手間のかかる個人輸入に頼るより、高い売り上げが期待できる保険収載を望むのは当然だ。
このように混合診療をめぐる議論では、様々な思惑が交差している。しかも規制を支持する人たちの主張は、はっきりとした根拠に基づいていない。
国民皆保険
すべての国民を公的医療保険に加入させ、医療を平等に受けやすくした制度。日本では農業や自営業者など、社会保険の未加入者に国民健康保険を強制適用する新国民健康保険法が1958年に制定され、61年から全国民を対象とする皆保険・皆年金体制が実現した。
保険外併用療養費制度
公的医療保険適用外の高度先進医療や療養サービスのうち、厚生労働大臣が認めた「評価療養」「選定療養」について、通常の保険診療にあたる部分の保険給付を認める制度。混合診療の規制緩和の一部として、2006年に健康保険法を改正し、特定療養費制度より再編された。