マスメディアをめぐる様々な問題が指摘され、メディア業界の衰退が叫ばれる昨今、ジャーナリズムはどうあるべきなのか――。朝日新聞記者でルポライターとしても活躍する三浦英之さんが2024年11月、『災害特派員 その後の「南三陸日記」』を集英社文庫から刊行しました。この文庫に解説を寄せ、『桶川ストーカー殺人事件――遺言』(以下、『遺言』)や『殺人犯はそこにいる 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』(ともに新潮社)などの著作で日本における調査報道の第一人者として知られるジャーナリストの清水潔さんと、三浦さんがこのたび初対談。取材対象者とどう向き合い、いかに記事を書くべきか。失われつつあるジャーナリズムの意義について語り合いました。(※2024年10月に対談収録)
三浦英之さん(左)と清水潔さん(右)
事実をいかに明らかにするのか
三浦 私は2000年に朝日新聞に入社して記者になりました。その同じ年、清水さんの『遺言』が刊行されて、わりと早い時期に夢中になって読んだのを覚えています。私たちの世代は、記者として入社するとまず警察担当に配属されて、早朝から深夜まで夜討ち朝駆けを繰り返し、警察情報をいかに早く取るかという訓練を受けさせられました。そんなときに、警察官から捜査情報を取るのとはまったく違った手法で、独自に現場を何度も取材して事件の真相に迫っていくこの本を読んで、とても衝撃を受けましたし、「いつか自分もこういう書き手になりたい」と憧れました。
清水 当時、『遺言』を読んで私が在籍していた新潮社に就職したという人も多かったんですよ。でも、最近はメディアに就職したいという人がすっかり少なくなってしまいましたね。報道やジャーナリズムがなんのために存在するのか、ということがなかなか伝わっていない気がします。
三浦 記者の仕事というのは、たとえばインスタグラムなどのSNSで注目されるような見栄えのいいものでは全然ないんですよね。毎朝毎晩、事件が起きた現場に何度も足を運んで、目撃情報など事件に関することを地を這うようにして聞いて回る。あるいは、待っている人物が現れる保証もないのに、ひたすら張り込む。そして、独自に犯人に近づいていけばいくほど身の安全も確保されなくなっていく。清水さんの『遺言』や『殺人犯はそこにいる』では、そうした「野犬」のような、本来あるべき記者の仕事が描かれています。そして、清水さんがそうした取材を続けたことで、事件の全容が明らかになり、ついには警察が告訴状を書き換えていたという、とんでもない事実が発掘された。
清水潔さんの『桶川ストーカー殺人事件――遺言』と『殺人犯はそこにいる 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』(ともに新潮社)
清水 その2冊の本では、「どうやって取材したのか」という裏側を、できる限り書くようにしました。警察発表ではなく、独自の調査で明らかになった事実を書くとき、そこに至るまでの過程を書かなければ、それが事実であるということを証明できないからです。でも、最近は、「裏付けがとれていないけど、当局が言っているんだからいいじゃないか」といって、当局の広報文を書き直すことが仕事だと思っている記者もいますよね。
三浦 昔はメディアが警察の不祥事をいくつか握っていて、何かあったらそれを出すということで、権力に対して牙をむいていましたが、今は本当に「飼いならされている」と言われてもおかしくないような状況になってしまっていますよね。当局にも、そして所属組織にも、あまりにも従順な「会社員記者」が目につくようになってしまった。
清水 残念ながら、「事実」には興味がない記者もいるんですが、でも記者として「事実を知らない」ということは、ものすごく怖いことなんですよ。たとえば、警察は、事件を自分たちの都合のいいように解釈させるために「本当は隠し玉がある」などと表には出せない証拠があるかのように言ったりする。でも、実は「隠し玉」なんてなかったりするわけです。
三浦 清水さんの作品を読んで、メディアで働いている人が「警察は本当のことを言っているのか」って考えながら仕事をするだけでも、今のメディアの状況は随分と変わるんじゃないかと思っています。警察は時に、殺害されてしまった被害者に対して自分たちに都合のいい被害者像を作って、それを警察情報としてメディアを通じて広めていく。『遺言』のテーマである桶川ストーカー殺人事件で被害にあった猪野詩織さんも、高級バッグを持っていたとか、アルバイト先がどうだったとか、実際の本人とは大きくかけ離れたイメージが広まってしまいました。