昆虫が持つ驚きの能力
トンボやハエの目玉を思い出して欲しい。昆虫の眼は、数万個のレンズからなる複眼で、視力はたったの0.01しかない。それにもかかわらず、トンボは大空を自由自在に飛び回り、小さな虫をものの見事にキャッチする。ミツバチも、小さな羽を1秒間に250回という驚きの速さで動かしながら、決して周囲の仲間や障害物にぶつかることはない。実はミツバチの動態視力は非常に高く、1秒間に350回の速さで点滅する光を見極めることができるのだ。
また、2億5000万年前から姿形をほとんど変えることなく生き延びてきたゴキブリは、腹部の先の尾葉に並ぶ毛で秒速2センチの空気の流れを感じ取り、0.02秒という早業で瞬時に逃げることができる。「進化論」を唱えたチャールズ・ダーウィンは、「最も強い者が生き残るのではなく、 最も賢い者が生き延びるのでもない。 唯一生き残るのは、変化できる者である」という名言を残したが、ゴキブリはある意味、あらゆる環境に対応しうる究極の仕組みを備えた生物といえるだろう。
そして、オオクジャクガのオスはメスの匂いであるフェロモンを数キロ先からでも嗅ぎ分け、確実にメスの居場所にたどり着く。これは『ファーブル昆虫記』で紹介され、広く知られるようになったことだが、ほかにも多くの昆虫が触角という高感度の匂いセンサーを持っている。
このように、時々刻々と変化する環境下で、我々人間の想像をはるかに超える昆虫たちの能力は、「昆虫力」と呼ばれている。
注目を集める「昆虫力」
地球が誕生したのは、今から約46億年も前のこと。そして、約30億年前に生物が出現し、それぞれが独自の進化を始めた。その中で、動物は約5億年前に大きく二つの系統に分かれた。現在、それぞれの頂点に位置するのが、昆虫に代表される「節足動物」と、ヒトに代表される「脊椎動物」だ。節足動物が向かった進化の方向性は、小型で短命なこと。一方、脊椎動物が向かった進化の方向性は、大型で長寿命なことだ。現在、地球上には約150万種の生物が生きており、その中で脊椎動物が4万5000種なのに対し、節足動物は昆虫だけで約95万種と、圧倒的な数を誇る。動物全体で見ると、約7割を昆虫が占めているのだ。これは、昆虫が地球環境への高い適応能力を持っていることの証しだ。そして、その能力を支える昆虫力の根源となるのが、すべての行動をつかさどる脳だ。
ヒトと対極的な進化の過程をたどった昆虫の脳だが、基本的なニューロンの構造や情報伝達の仕組みは、昆虫もヒトも同じだ。理由は、約5億年前に二つの系統に分かれる以前に形成されたものだからだ。それゆえ、昆虫の脳を研究し、理解することは、昆虫力の解明につながると同時に、ヒトの脳を理解すること、そして今後、我々人間がいかにして自然と共存しながら生きていけば良いかのヒントを与えてくれる可能性を秘めている。
構造自体がヒトと異なる昆虫の脳
ヒトの脳が約1000億個ものニューロンからできているのに対し、昆虫の脳のニューロンはせいぜい100万個。例えば、バッタの脳のニューロンは約40万個で、幅2ミリ足らず。容積にして6立方ミリ程度だ。だが、昆虫の脳は単に微小なだけではない。構造自体が大きく異なるのだ。昆虫の身体は、「頭部」「胸部」「腹部」の三つのパーツで構成されており、それぞれに独立した脳、正しくは“神経節”を持っている。これを「分散脳」という。例えていえば、ヒトの脳は「中央集権型」、昆虫の脳は「地方分権型」ということになるだろう。ここでは、頭部の神経節を脳、胸部と腹部の神経節を単に神経節と呼び、区別することにしよう。頭部には、複眼、触角、口、そして脳があり、脳は、触角で捉えた匂い情報や複眼で捉えた視覚情報などを集め、必要に応じて行動を起こす指令信号を生成。胸部や腹部の神経節に伝えられ、行動パターンが引き起こされる。胸部には2対の翅と3対の脚があり、胸部の神経節は歩行や羽ばたきなどの行動パターンを引き起こす。腹部には、交尾器や尾葉といわれる空気の動きを感知する器官があり、腹部の神経節は呼吸、消化、排泄、交尾、産卵などの行動を制御する。
昆虫の場合、驚くことに、頭部と腹部を切り取って胸部だけにしても、羽ばたくことができる。これは、分散脳である胸部の神経節単独の指令信号によるものだ。
高感度のセンサーを身にまとう戦略を取った昆虫
昆虫が分散脳という戦略を取っているのは、身体の大きさによるところが大きい。仮に、おとぎ話やSF映画のように、人間が昆虫のように小さくなれたとしても、大きかったときと同じような立ち振る舞いができるわけではない。身体の体積が縦×横×高さで求められるのに対し、身体の表面積は縦×横で求められる。それゆえ、1辺の長さが2分の1になれば、体積が8分の1まで小さくなるのに対し、表面積は4分の1にしかならない。体積に対する表面積の割合が大きくなると、身体が受ける空気の摩擦力が増してしまうのだ。それゆえ、小さな昆虫にとって、空気は蜂蜜のようにネバネバした存在なのである。逆に、昆虫は、ヒトに比べて体積に対する表面積の割合が大きいという特徴を生かし、生き残り戦略を取った。つまり、触覚や聴覚など、優れた高感度センサーを身体中にまとい、そこから得られる情報をできる限り分散脳で処理し、環境の変化に迅速に対応できるようにしたのだ。一方、脳には、極力必要な情報だけを伝えるようにしたのである。それゆえ、昆虫の脳は、記憶容量も必要最小限で、非常にシンプルかつ処理速度が速く、省エネルギーな構造になっている。
記憶や学習機能も装備する昆虫
昆虫は反射や本能に基づき行動しているように思われがちだが、実は情動や記憶、学習といった機能も備えている。前述の通り、ヒトの脳も昆虫の脳も、ニューロンの構造や情報伝達の仕組みは基本的に同じだ。送り手のニューロンが発した電気信号は、いったん化学物質の信号に変換され、ニューロン間の連結部であるシナプスを介して受け手のニューロンに引き渡され、再び電気信号に変換される。ヒトの脳と昆虫の脳、両者の違いは、ニューロンの数の違いによるネットワークの作り方の違いだけということになる。昆虫力とテクノロジーが融合する
現在、脳神経科学や医学、遺伝子工学など様々な分野で、昆虫の脳に関する研究が進められている。また、昆虫力を自動車やロボットなどに生かそうとする産業界の動きも活発化してきている。例えば、ミツバチの障害物回避能力を応用した「ぶつからない自動車」、カイコガの触角の高感度な匂いセンサーを応用した「匂い探知ロボット」などがそれだ。さらに、遺伝子を操作することで、フェロモンではなく特定の匂いに反応するカイコガを作る研究が進められ、麻薬探知犬ならぬ「麻薬探知昆虫」に仕立て上げようといったアイデアまで持ち上がっている。(第1回終了 第2回「昆虫とロボットの融合で探る脳科学」に続く)