「意味がなかった」電王戦
2012年1月14日に開催された第1回将棋電王戦では、米長邦雄永世棋聖(前日本将棋連盟会長、故人)とコンピューター将棋ソフト「ボンクラーズ」が対決し、ボンクラーズの勝利で幕を閉じた。次いで、13年3月23日~4月20日の5週間にわたって開催された第2回電王戦は、現役プロ棋士5人と五つのコンピューター将棋による5番勝負となった。この対局はインターネット配信され、計5局の延べ視聴者数は200万人を超えるなど、イベントとしては大きな盛り上がりを見せた。しかしながら、結果はコンピューターが人間に圧勝。現役の棋士が史上初めて公式の場でコンピューターに敗れるという、プロ棋士にとっては屈辱的な内容となってしまった。なぜこのような結果になったのか。それはコンピューター将棋に対するプロ棋士側の理解と、準備が足りていなかったということだろう。米長氏はコンピューター将棋を徹底的に研究した上で、第1回電王戦に臨んだ。事前に何度も対局を繰り返す中でコンピューターの底知れない強さに気付いた米長氏は、特に対局の半年前からは勝つための秘策を必死になって考え、2手目に「6二玉」という、人間同士の対局ではまず有り得ない手を指してきた。残念ながら最終的に形勢を損ねて負けてしまったが、その狙いは途中まで成功していたと思う。
米長氏が電王戦を主導したのは、いずれコンピューター将棋と対決することになるであろうプロ棋士たちの前に、自らを“検体”としてささげる意図もあったと思う。それを踏まえて、次に戦う棋士たちは十分に準備をし、勝ってほしいと期待していたはずだ。一方、第2回電王戦で敗れたプロ棋士たちは、確かな実力を持ちながらも、「対コンピューター」という点で、すでに引退されていた米長氏ほどの徹底した準備はしていなかった。とすれば第2回電王戦の結果は当然であり、対局自体あまり意味のないものになってしまったと言わざるを得ない。
「人間対コンピューター」の構図は危険
コンピューター将棋はこの10年足らずで劇的に進化した。強さの秘訣は、ハードウエアの計算速度の大幅な向上はもちろんだが、一つひとつの指し手の優劣を判断する評価関数の精緻化が進んだこと。特に機械学習によって評価関数を最適化するという手法が登場したことで、将棋ソフトはプロ棋士と互角以上に渡り合えるほど強くなった。しかも、まだまだ強くなる。コンピューター将棋がここまでの強さを身に着けた今、「コンピューターはプロに勝てるか」といった観点で両者が対峙(たいじ)するのは終わりにすべきではないか。
プロ棋士の精鋭とコンピューター将棋のトップが激突するという構図の電王戦は、「ソフトウエアがどれだけ強くなったか確認したい」という開発者側の希望と、「将棋に注目が集まれば」という米長氏、ひいては日本将棋連盟の思いが一致して始まったイベントだ。
私自身、「TACOS(タコス)」という名前のコンピューター将棋を開発し、2005年に橋本崇載五段(現八段)と公開対局を行うなど、一連の流れに関わってきた一人ではある。負けたとはいえTACOSがきわどい勝負を演じた結果、同年に日本将棋連盟がコンピューター将棋との公開対局を禁止(許可制)する旨の通達を出すに至った。
しかし、この時プロ棋士の存在を絶対的なものとしてしまったことで、今に続く「人間対コンピューター」という構図が出来上がってしまい、引っ込みがつかなくなっている。この流れは危険だ。これ以上続けても、人間側が一方的に傷つくだけだからだ。
もし、人間対コンピューターで勝ち負けを競うイベントを続けるのなら、第2回電王戦のようにプロ棋士だけが対局するのではなく、プロ、アマ関係なくコンピューターとの対戦成績の良いプレーヤーを選ぶオープン選手権のようなものを開いてランク付けをし、その上でコンピューターと対決するというのがよいのではないか。人間相手に指す将棋と、コンピューター相手に指す将棋とでは別の技術が求められる。対コンピューター戦に限っていえば、アマチュアの中にもコンピューターの思考回路、振る舞いに精通した人たちがいるからだ。
将棋が持つ「芸術」という側面
今後、人間とコンピューター将棋はどのような関係を築いていくべきだろうか。私は対決の構図から、共存共栄へとベクトルを変える必要があると考えている。例えば、プロ棋士が選んだ一手の意図を評価関数に基づき可視化して視聴者にわかりやすく見せてあげるなど、コンピューターが将棋の面白さを引き立てる役割を担うこと。また、すでに一部で行われているが、棋士の練習相手になったり、または教育的な役割を担ったりすることなどだ。コンピューター将棋は強さに特化して進化してきた。機会さえあれば名人に勝つ日も遠くないだろう。しかし、たとえそうなったとしても、ただ最善の一手を導き出すだけのコンピューターが、果たして名人を「超えた」と言えるのだろうか。
コンピューター将棋が名人の領域に踏み込むには、まだまだ足りないものがある。そのカギの一つは、自分の負けを認める瞬間である「投了」にあると考えられる。
投了を見極められるということは、相手の実力を十分理解していることの証しである。しかも、一流の棋士になればなるほど、対局相手との間に阿吽(あうん)の呼吸のようなものが生まれ、お互いが察知した投了のタイミングというのが不思議なくらいに一致する。
また、プロ同士の将棋には、対局記録である棋譜を後世に残して恥ずかしくないものにする「形づくり」という作法、文化がある。棋士は、負けを認識せざるを得ないときまでは勝負に徹するプレーヤーだが、ひとたび敗北を受け入れた後は、棋譜を価値あるものにしようとする芸術家に変わる。プロ同士の対局には、ゲームが芸術に昇華する瞬間があるのだ。
一方、コンピューターは敗勢が明らかになっても意味のない手を指し続けようとする。諦めないということはコンピューターの強みの一つではあるが、実はこの行為は、投了のタイミングを見極められないという点で、知性の乏しさの表れ、文化としての将棋を全く理解していないとも言える。これは、コンピューター将棋の開発者たちが、将棋をゲーム、もしくは知的スポーツとしてのみ扱ってきたからだろう。
どの段階で形づくりに入り、どこで投了するかは感性、芸術の世界だ。こうした人間の知性の機微にサイエンスのメスを入れることができるか。それこそが本来コンピューターに将棋を行わせる目的だったはずだ。それが、今は「名人に勝つ日はいつか」といったことばかりが注目されるようになってしまっている。これでは将棋文化に土足で入り込むようなものだ。
今後、私がコンピューター将棋の開発者に望むことは、将棋を文化という視点でとらえてほしいということ。それにより、コンピューターと人間の共存共栄の道が開かれると同時に、人工知能研究の発展にもつながっていくと考えている。
機械学習
過去の膨大な棋譜(対局の記録)をもとに、形勢判断に用いる評価関数をコンピューターに自動調整させる手法。2006年に「世界コンピュータ将棋選手権」で優勝した「Bonanza(ボナンザ)」が採用。開発者の保木邦仁氏(現在、電気通信大学特任助教)がそのソースコードを一般公開したことで、他の将棋ソフトも取り入れるようになった。
形づくり
勝敗が決まったと棋士同士が暗黙のうちに合意したあと、投了する側が「一手違い」、すなわちあと一手遅いために負けた、という形に持っていくこと。