そこに潜んでいる
世界にはおおよそ3500種類の蚊が生息し、日本国内からは約110種類が見つかっています。ただし、場所にもよりますが、日本の住宅地周辺で捕獲される蚊の多くはアカイエカ、チカイエカ、もしくはヒトスジシマカの3種によって占められます。アカイエカは夜吸血するタイプで、夏の夜、ブーンという羽音とともに安眠を妨げる褐色の蚊です。ヒトスジシマカは逆に昼間活動するタイプです。「白と黒のしま模様があり、朝や夕方に竹やぶなどで刺されるヤブカといったらピンとくる人が多いのではないでしょうか。チカイエカはビル地下の貯水槽などから1年中発生する蚊で、色や形からはアカイエカと区別がつきません。チカイエカは一度目の産卵を無吸血で行ったり、ふつうならオスの集団が蚊柱を形成し、その中にメスが入って交尾をするのですが、蚊柱を作らなくても、試験管のような非常に狭い空間で交尾ができるといったような特殊能力をもっています。夏季に川や湖の周辺でときに大発生したり、街灯に多く飛来するユスリカは蚊と同じ双翅目(そうしもく)ですが、この昆虫はユスリカ科に属し、口針がなく、吸血することはありません。蚊の活動範囲は種類によって異なります。私たちはあらかじめ野外で大量に採集した蚊の成虫を蛍光色素で染色し、再び野外に放った後、捕虫網やトラップで再捕獲することで蚊の移動距離を調査することがあります。その結果、ヒトスジシマカは基本的に半径100メートルほどの狭い範囲内でのみ行動し、アカイエカは最低でも1.2キロメートルは飛翔する能力があることが分かっています。さらにコガタアカイエカは偏西風に乗って中国大陸から日本にまで長距離移動することができます。
こうして暮らしている
蚊はメスのみが吸血します。それは、産卵に必要な栄養源を血液中のたんぱく質で補うからです。ただし、すべての蚊が産卵に血液を必要とするわけではありません。前述のチカイエカは一度目の産卵に吸血を必要としませんし、希少種であるトワダオオカという大型の蚊は一生血液を吸いません。一方、オスは花の蜜などを吸って栄養源としています。ほとんどの蚊は、できるだけ多くの栄養分を体に蓄えようとして、吸血中に血液から水分をこし取り、尿として排泄(はいせつ)します。ハマダラカの仲間では、この「こし取る」作業があまり上手ではなく、赤血球が混じった赤い尿を排泄するケースもあります。
越冬形態も蚊によってさまざまで、ヒトスジシマカなどのヤブカの仲間の多くは卵で越冬しますし、アカイエカやハマダラカの仲間の多くは成虫で越冬します。都市域においても、水路の暗渠(あんきょ。覆いをしてふさいだ水路)の中は風雨がしのげ、湿度も適度に保たれることから、冬場にアカイエカの越冬成虫が留まっているのを観察することができます。
吸血蚊の血液の遺伝子を検査することで、その蚊がどんな生物の血液を吸ったのか知ることができます。一般に、蚊はヒトや家畜などの温血動物の血液を主に吸っているイメージがありますが、蚊の種類によっては変温動物を吸血源としているものもいます。チビカと呼ばれる蚊の仲間はヘビやトカゲ、カエルなどから血を吸います。面白いことに、この種の蚊はカエルの鳴き声や、それを再生しているCDラジカセにまで誘引されて集まってきます。また、カエルの声には血液を必要としないオスまでも引き寄せられることから、オスのチビカはカエルの声を頼りにメスに近づく習性を身につけていると考えられます。
沖縄本島や西表島のマングローブ林にあるカニの穴をすみかとするカニアナヤブカは、ミナミトビハゼという魚から吸血することが琉球大学の研究グループによって2003年に明らかにされました。魚から血液を吸う蚊は、これまでにこの種を含めて世界で2種しか見つかっていません。
ときに危険な病気を媒介する
世界中には蚊が媒介するさまざまな疾病が存在していますが、すべての蚊がこれらの病原体を媒介できるわけではありません。マラリア(ハマダラカによる)、デング熱やチクングニア熱(ヒトスジシマカ、ネッタイシマカによる)、黄熱(ネッタイシマカによる)、日本脳炎(主にコガタアカイエカによる)、ウエストナイル熱(アカイエカ種群を中心とした多くの蚊種による)といったように、蚊によって媒介できる病気がおおよそ決まっています。また、媒介能力があっても、ヒト吸血嗜好性が高くない(他の動物をより好んで吸血する)から媒介蚊としてのリスクが低いという場合もあります。病原体をもたない媒介蚊にいくら刺されても、これらの病気にかかることはありません。日本に生息するマラリア媒介蚊の多くは夜間吸血性で、網戸や冷房設備が発達した現代の日本においては、これらにヒトが刺される機会は非常に少なくなりました。したがって、仮に海外からマラリア原虫に感染した患者さんが入国したとしても、蚊とヒトとの間で感染サイクルが回る可能性は低いと考えられます。
一方、デング熱やチクングニア熱の病原ウイルスを媒介するヒトスジシマカは昼間吸血性で、ヒトが吸血の被害に遭う機会はいまだに多くあります。生息地は、かつては関東以南のみでしたが、地球温暖化にともなって年々分布の北限が上昇し、今では青森県にまで及んでいます。病院から報告されるデング熱の輸入症例も1999年にわずか9例であったのが、毎年増加傾向にあり、2010年には120例を超えました。
戦後間もなくして長崎県でデング熱の大流行があったことを考えると、再び日本においてこれらの感染症が流行する可能性は否定できません。ただし、熱帯地域と異なり四季がある日本では、冬の間蚊の活動は休止し、その間感染サイクルもいったん遮断され、流行は一過性であると考えられることから、過剰な心配は必要ないと思われます。
東日本大震災被災地の中でも、主に津波の被害が大きかった東北沿岸地域では、多くの水たまりが発生し、2011年の調査では多数の蚊の発生が認められました。海岸に近い地域では多少の塩水でも生きられるトウゴウヤブカの幼虫発生が多く認められ、少し内陸部に入った田園部ではアカイエカが多く発生しました。しかし、幸いにして、これらの地域に蚊媒介性の病原体がなかったことから、感染症の流行は免れることができました。
殺虫剤に強くなる
日本で市販されている虫除け剤として一番流通しているのは、有効成分がディート(Deet)と呼ばれる忌避剤です。これは蚊の嗅覚に作用して、吸血源の特定に必要な触覚から脳へのシグナルを撹乱することで、吸血を抑制していると考えられています。日本脳炎(Japanese encephalitis)
東南アジアや南アジアを中心に分布するウイルス感染症で、ときに重篤(じゅうとく)な急性脳炎を引き起こす。潜伏期は6~16日で、高熱、頭痛、嘔吐(おうと)、目眩(めまい)などに続き、意識障害や筋肉の硬直、麻痺やけいれんなどをともなう。脳炎を起こした場合の致死率は20~40%にも及ぶ。黄熱と同じく、フラビウイルス属のウイルスによるもので、ブタなどの家畜に感染することでウイルスが増殖し、それを吸血したコガタアカイエカに刺されることでヒトに感染する。
ウエストナイル熱(West Nile fever)
アフリカ、ヨーロッパ、中東、中央アジアなど、広範囲に分布するウイルス感染症。名前は、ウガンダのウエストナイル地方で最初の患者が見つかったことにちなむ。潜伏期は3~15日で、発熱、頭痛、背中の痛み、筋肉痛などをともない、約1%の患者がまひや昏睡(こんすい)、けいれんなどの髄膜炎(ずいまくえん)や脳炎を発症する重篤(じゅうとく)な症状を見せる。このウイルスに感染した鳥類からの吸血時にアカイエカなどが感染し、その蚊に刺されることでヒトが感染する。
デング熱(dengue fever)
中央アメリカ、南アメリカ、東南アジア、南アジア、アフリカ、オーストラリアなどの熱帯・亜熱帯地域に分布するウイルス感染症。非致死性の軽症型と致死性の重症型がある。前者は「デング熱」と呼ばれ、感染から3~7日後に発熱や頭痛、眼窩痛(がんかつう)、筋肉痛などをともなうが、1週間ほどで回復する。後者は、平熱に戻りかけたときに鼻血や吐血、下血などを発症する出血性の「デング出血熱」と、血液中の血漿(けっしょう)の漏れだしが進行してショック症状を引き起こす「デングショック症候群」とに大別される。デングウイルスによるもので、これには四つのタイプがあるが、どの型でも同様の症状を示し、ネッタイシマカとヒトスジシマカによって、ヒト~蚊~ヒトのサイクルで感染が広がる。
チクングニア熱(Chikungunya fever)
西アフリカ、中央アフリカ、南アフリカ、東南アジアなどに分布するウイルス感染症。潜伏期は3~7日程度で、発熱、関節痛、発疹、倦怠感(けんたいかん)などをともなうが、致死性ではない。チクングニアウイルスに感染しているヒトから吸血することでヒトスジシマカやネッタイシマカがウイルスに感染し、その蚊がさらに他のヒトを刺すことで感染が広がっていく。
黄熱(yellow fever)
アフリカや南アメリカなどの熱帯・亜熱帯地域に分布するウイルス感染症。潜伏期は3~6日で、軽症であれば発熱、頭痛、嘔吐(おうと)などをともなうものの、数日で回復する。重症になると、さらに目眩(めまい)や高熱、脈拍数の低下、黄疸(おうだん)、下血などをともない、致死率は20%に及ぶ。サル日本脳炎と同種のフラビウイルス属のウイルスによるもので、このウイルスはサルとヒトを宿主とし、ネッタイシマカによってランダムに媒介され、感染が広がる。
マラリア(malaria)
熱帯・亜熱帯における代表的な感染症で、マラリア原虫によって引き起こされる。発熱、倦怠感(けんたいかん)、関節痛、嘔吐(おうと)、下痢などの症状をともない、死に至ることもある。ハマダラカの唾液腺(だえきせん)には、マラリアの原因となるマラリア原虫の「胞子」が集まっており、ヒトを吸血するときに注入する唾液と一緒にこれが体内に侵入。肝細胞で増殖したうえで、血液中に放出されることによって発病する。