マダニという生物
みなさんは、マダニを見たことがありますか? 通常体長数ミリ程度ですが、吸血すると体重が100倍ほどにまで膨れ上がる不思議な生物です。犬を飼ったことがある方なら、体に付いて大きくなったマダニを見かけたことがあるかもしれません。幼虫が吸血して若虫に、さらにもう一回吸血して成虫になりますが、若虫以降は8本脚で、昆虫ではなくクモの仲間に分類されます。日頃なかなか意識しない生物ですが、実はちょっとした山林や草原に普通に生息しており、東京都内ですら見かけることがあります。彼らはさまざまな病原体を媒介する
私たち衛生昆虫研究者がマダニの存在を警戒するのは、この生物がヒトをはじめとしたさまざまな動物に密かに忍び寄り、血液を吸うだけならまだしも、厄介な病原体を唾液とともに注入し、感染症を引き起こす恐れがあるからです。国内ではSFTS以外にも、昨年(2016年)初めて死亡例が報告されたマダニ媒介性脳炎、年々報告患者数が増えている日本紅斑熱、欧米でも問題となっているライム病、そのほか野兎病(やとびょう)やQ熱などの感染症が知られています。海外に目を向けると、エボラ出血熱と同じ四大出血熱の一つに数えられるクリミア・コンゴ出血熱はアフリカから西アジアにかけて分布し、さらにオーストラリアの特殊なマダニは唾液に神経毒をもっており、咬まれると呼吸困難になるほど危険なマダニ麻痺症をもたらすことが知られています。欧米では、野山に入ると「マダニ注意」の立て看板が普通に立てられているほどです。動物が来たら乗り移り、時には自ら近寄る
マダニは日本では47種が知られています。種によって発生ピークが異なりますが、主に4月から10月の暖かい季節に活発に活動します。草の先端や落ち葉の上などで動物がやってくるのをじっと待ち、植物の種のように脚の先にあるかぎ爪を引っかけて乗り移ります。また、意外にも未吸血個体は結構なスピードで歩くことができます。野生動物が休息しているときには、呼吸によって出される二酸化炭素と熱を頼りに素早く忍び寄り、体の柔らかい部分を探して吸血を開始するのです。私たち研究者が野外でマダニの調査を行う場合は、このかぎ爪による引っかけを利用して、白い布を地面の上で引きずり、くっ付いてきたマダニを捕獲します。これは「旗ずり法」といって、特に4月から5月にかけて野生動物が多くいる地域で行うと、10メートルほど引きずるだけで100匹以上のマダニがくっ付いてくることもあります。
SFTSとは
この病気は6~14日の潜伏期間を経たのちに発症し、高熱とともに嘔吐、腹痛、下痢などの症状、さらに血小板や白血球数の減少などが生じます。2013年1月に原因不明の疾患を患った方の血液から初めて原因ウイルスが見つかりました。その2年前に中国で発見されたものとは遺伝子配列が異なっていたことから、最近海外から渡ってきたものではなく、ある程度以前から日本に土着していたものであろうと推測されました。保健所への報告が義務付けられている4類感染症に指定され、17年4月26日までに53名の死者を含む232名の感染者が報告されています。単純計算で致死率約23%は、わが国の季節性インフルエンザの致死率とされる0.05%と比べると桁違いに高いことがわかると思います。現在のところフタトゲチマダニやタカサゴキララマダニのようにSFTSの媒介マダニとして疑わしい種はいくつか挙げられていますが、確定までには至っていません。それはマダニが保有するウイルス量が非常に少なく、感染性を保ったまま病原体を培養することが難しいからです。逆に言えば、検出できないほどに極微量のウイルス量であってもヒトの体内で増殖し、発症させる恐ろしい病気であるともいえるのです。
西日本からのみ発生
これまでに報告されたSFTS患者の推定感染地域は、石川、滋賀、三重の各県より西の21府県に偏っており、東日本では確認されていません。マダニが活発に活動する5~10月に患者が多く発生し、60~80歳代が中心ですが、そのほかの世代からも患者が報告されています。SFTSがなぜ東日本で発生していないかというのは、この病気の最大のミステリーといっていいかもしれません。最も有力な説としては、東西のマダニ相の違いが挙げられます。西日本でヒトが被害に遭うことが多いマダニ種はSFTSの媒介が疑われるフタトゲチマダニやタカサゴキララマダニですが、東日本ではシュルツェマダニやヤマトマダニといったマダニ属に分類されるマダニが主となります。ただ、東日本に媒介が疑われる種が全くいないわけでもありませんし、SFTSウイルスを保有するマダニは北海道を含む東日本からも見つかっていますので、あくまで確率の問題であり、今後東日本からもSFTS患者が発生する可能性がないとはいえません。
一方、ウイルス研究者の中には、このウイルスの起源が西日本であり、現在進行形で濃厚感染地域が西から東へ拡大しているからだと考える人もいます。もしその考えが正しいとすると、現在は石川県と三重県を東端としている患者発生地域が、今後徐々に東へ移動していくことになります。
決定的な治療法がない
残念ながら、現段階ではSFTSに対する特効薬はなく、有効なワクチンもありません。この病気にかかっても、対症療法で症状を和らげるしか手はないのです。ただし、そんな中でもわずかに望みはあります。同じウイルスを原因とするインフルエンザの治療薬の中に、SFTSにも効果が期待されるものがあり、国立感染症研究所によるマウスを用いた実験では、SFTSへの効果が認められました。2016年から30以上の医療機関で臨床研究が進められています。近い将来には、有効な薬が見つかるかもしれません。完成された吸血ギミックの妙
マダニの口器には、のこぎり状の歯がびっしりと逆向きに生えており、一度刺さったらなかなか抜けない構造になっています。マダニ媒介性脳炎
「中部ヨーロッパ脳炎」と「ロシア春夏脳炎」が知られる。ともに潜伏期間は1~2週間ほど。前者は、発熱や頭痛、筋肉痛などの症状が現れる第1期と、解熱後に数日を置いて、けいれんや目眩(めまい)、知覚異常などの中枢神経に症状が現れる第2期の「二相性」の病状を呈し、致死率は低いが、感覚障害などの後遺症をもたらすケースが多い。後者は、発熱、頭痛、嘔吐などの症状から、精神錯乱、昏睡、けいれんなどの症状が現れ、致死率は30%に及ぶ。病原体はマダニ媒介性脳炎ウイルス。
日本紅斑熱
潜伏期間は2~8日で、発熱、頭痛、倦怠感とともに四肢末端部を中心に発疹が現れ、刺し口周辺が赤く腫れる。白血球や血小板が減少する症状も見られる。病原体はリケッチアの一種リケッチア・ジャポニカ。
ライム病
潜伏期間は数日~数週間で、発熱、頭痛、倦怠感、関節痛、刺し口を中心に紅斑が現れる「ステージI」、神経症状や心疾患、関節炎、筋肉炎などの症状が現れる「ステージII」、数カ月~数年かけて重度の皮膚症状や関節炎が慢性化する「ステージIII」に至る。病原体は細菌のボレリアで、数種が知られる。
野兎病(やとびょう)
潜伏期間は3~7日で、頭痛、筋肉痛、関節痛の症状とともに発熱が長期に及ぶ。刺し口付近のリンパ節が腫れたり、膿んだりする疼痛もともなう。病原体はグラム陰性小短桿菌。
Q熱
急性型と慢性型がある。前者は潜伏期間が2~3週間で、発熱、頭痛、倦怠感、関節痛、呼吸器症状などインフルエンザ様であるほか、肺炎や肝炎をもたらすこともある。後者は症状が6カ月以上にわたるもので、動脈炎、骨髄炎、髄膜炎、肝炎などに及んでいく。病原体は細菌のコクシエラバーネティー。
クリミア・コンゴ出血熱
潜伏期間は2~9日で、発熱、頭痛、筋肉痛、関節痛などの症状のほか、肝臓や腎臓の不全や消化管出血などに重症化するケースもある。病原体はクリミア・コンゴ出血熱ウイルス。