過去の存在と思われがちな吸血害虫・シラミ。私たちの警戒の外に置かれたこの昆虫の一種・アタマジラミが、昨今、その勢力を拡大させているようです。その標的が「子どもたち」となると、看過することはできません。
年間感染者50万人で「過去の存在」ではない
皆さんはアタマジラミについてどのような印象をおもちでしょうか? 第二次世界大戦後(1945年~)の、頭から殺虫剤のDDTを掛けられる人の画像や映像を思い浮かべる方も少なくないと思います。イメージとしては過去の存在で、既に地球上から絶滅したような印象ですね。
確かに、戦後いったんは下火となったアタマジラミの問題ですが、1970年代から80年代初頭にかけて再び全国的に流行したことがありました。81年に「スミスリン(住友化学の商標)」という駆除薬が登場して被害が大きく減少しましたが、この問題が全くなくなったわけではありません。現代の日本においても幼稚園や保育園などでは、ときどき小規模な流行を起こすことがあります。東京都に寄せられたアタマジラミに関する相談件数は周期的に増減があるものの、過去15年間は一度も年間500件を下回っていません。2007年には、駆除薬製造会社が年間感染者数を50万人程度と推定しています。人口が日本の約2.5倍であるアメリカでは、年間600万~1200万人のアタマジラミ感染者がいるだろうと米国疾病予防管理センターは推定しており、現代においても相当数のアタマジラミが地球上で人々を悩まし続けていることがうかがえます。
生きものとしてのアタマジラミ
私たちヒトに寄生するシラミは3種類います。アタマジラミ、コロモジラミ、そしてケジラミです。アタマジラミとコロモジラミは同胞種として扱われ、頭に付くか衣服に潜むかという、生態の違いで区別されているだけです。ヒトが衣服を身に着ける過程で、今から約8000年前にアタマジラミからコロモジラミへ進化していったと考えられています。まだ二者が分かれてから独立な種を形成するほど十分な時間が経っていないことから、遺伝子レベルでは、ほとんど区別がつかない状態です。
コロモジラミには発疹チフス、回帰熱、塹壕熱といった疾病の病原体を媒介する能力があることが知られています。発疹チフスは第一次世界大戦中(1914~18年)にヨーロッパで数百万人の死者を出しており、戦後もアフリカのブルンジやロシアなどで流行が確認されています。一方、アタマジラミについては、塹壕熱の病原体が検出された例はありますが、実際にこれら三つの病気の媒介を示す科学的証拠は得られていません。
また、ケジラミは他の2種とは離れた属に分類され、ヒトとの関わりの歴史は比較的浅いと思われます。彼らはゴリラの仲間に寄生するシラミのグループに近く、300万~400万年前にゴリラとの接触で偶然ヒトに乗り移り、独自に進化してきたものであると考えられています。ちなみに、俗に「ナンキンムシ」と呼ばれるトコジラミですが、これはカメムシの仲間で、学問的には別の目(もく)に分類される昆虫になります。
アタマジラミの生涯
アタマジラミの卵は長さ0.8ミリ程度で髪の毛の根元に産み付けられ、1週間から10日程度で孵化(ふか)します。人の頭髪の伸長速度(0.5ミリ/日)から計算して、根元から6ミリ以内に卵が付いていれば、生きている可能性が高いと言えます。幼虫は3回脱皮して、10日間ほどで約3ミリの成虫となります。メス成虫の寿命はおおよそ1カ月で、その間、毎日数個の卵を産み続けます。
彼らは、昆虫には珍しく翅(はね)がありませんので、飛ぶことができません。また、ノミのように高く跳ね上がるだけの脚力ももっていません。ですから、ヒトからヒトへの移動はもっぱら接触した髪の毛から髪の毛へ、ひたすら歩きまわってということになります。砂場遊び、幼児施設での集団昼寝、家族同士での就寝やキャンプなどを始め、まれに枕、帽子、ヘルメット、タオル、くしなどから間接的にうつることもあります。シラミ感染者は女性が8割程度を占め、多くは11歳以下の子どもです。頭同士をくっつけ合って遊ぶ年頃の、比較的髪の毛が長い女の子が感染する確率が高いことが分かります。また、添い寝などを介して子どもから親にうつることもしばしばあります。
600万年以上前にチンパンジーとヒトの祖先が分岐した時から、ヒトからヒトへと渡り歩き、脈々と、しつこくその命をつないできたアタマジラミですが、いったん寄主(ヒト)から離れてしまうと、飢餓と乾燥から3日以内に死んでしまうデリケートな一面ももっています。基本的に交尾済みの1匹のメス成虫からスタートして、その子孫が近親交配を繰り返しながら1人の頭の上で増えていきます。こうした繁殖が成り立つことから、近親交配に耐えられるほど完成された遺伝子セットをもった生物とも言えます。逆に言えば、寄主以外の動物に対応できるほどの遺伝的多様性がなく、寄主特異性が高い生き物です。
発疹チフス
コロモジラミが媒介する病原体細菌・発疹リケッチアによる感染症。12日間ほどの潜伏期間ののち、発症すると40℃にも及ぶ高熱と共に頭痛や悪寒、四肢の疼痛を引き起こし、発熱から数日後に発疹が全身に及び、時に意識障害に至るケースもある。適切な治療をしない場合、年齢にもよるが、致死率は10~40%に及ぶ。
回帰熱
シラミやダニが媒介する細菌感染症。回帰熱ボレリアと呼ばれる病原体は、シラミ媒介性のものは1種とされ、全世界規模で分布し、ダニ媒介性のものは世界各地ごとに約10種類存在する。5~10日ほどの潜伏期間を経て、発症する。初期の「発熱期」には頭痛や関節痛などを伴い、時に髄膜炎や黄疸などを発症する。3~7日を経て、いったん発熱が治まると「無熱期」へ移行し、5~7日間を経て、再度「発熱期」に回帰する。適切な治療をしない場合、病原菌の種類や患者の健康状態などにもよるが、致死率は数%~30%に及ぶ。
塹壕熱
シラミが媒介する細菌感染症。バルトネラ属の病原体細菌によるもので、潜伏期間は2~4週間。約5日間隔で40℃にも及ぶ高い発熱を起こす「発熱期」と、いったん熱が下がる「無熱期」を繰り返すことから「五日熱」とも呼ばれる。発熱と共に骨や関節の全身疼痛が起こる他、発疹なども見られる。致死率は、1%未満とされる。