「宗教」がもたらす「負」の面
連想ゲームで「宗教」という言葉を聞いたとしたら、あなたは何と答えるだろう。即座に「自爆テロ」とか「霊感商法」とか答える人が、少なからずいるように思える。それほど、現代社会では「宗教」は、ネガティブなイメージでしかとらえられていないのである。たしかに「宗教」には、問題が多すぎる。古今東西の歴史を少し勉強してみれば、専制君主のように振る舞った宗教家たちの事例は、いくらでも見つかるはずだ。人類史上、相当長い期間にわたって、国王も庶民も「宗教」という権威の前では無条件にひれ伏してきたのである。
現在、世界各地に勃発している紛争にも、たいていは「宗教」が絡んでいる。権力欲の強い人間にとって、人心掌握のために「宗教」ほど便利な道具はない。いわゆる宗教紛争というのも、ほとんどが「宗教」のぬいぐるみをかぶった権力者たちの権力闘争である。
いや、もっと日常的なレベルでも、葬儀や法事を営む際に僧侶から高額の布施を請求された経験を持つ人にとっては、「宗教」とは「坊主丸儲け」の世界なのである。
「宗教」とは「人間の心」のこと
しかし、ここまで触れてきたような「宗教」とは、人間の思惑によって組織化された宗教教団のことであり、本来の意味での「宗教」ではない。建前としては、宗教教団は聖職者の集団であるが、実情は権力欲の人一倍強い人間の集団である。たいていの宗教批判は、それらの教団に向けられるべきものであって、「宗教」そのものの批判としては的外れである。では、いったい「宗教」とは何なのか。迂遠な議論を展開する余裕がないので単刀直入に言うが、「宗教」とは人間の心のことである。したがって、60億の人間がいれば、60億の宗教があることになる。
したがって、自己信頼をないがしろにして、既存の宗教教団に依存しようとするのなら、かえって「宗教」を見失うことになる。「自灯明、法灯明」という仏陀の言葉が伝わっているが、人生の暗闇も、まさに自分の心を明かりとして進むより、ほかないのである。 そういう個人の主体性が確立した宗教観のことを、私は無神教的コスモロジーと呼んでいるのだが、そこでは神仏を崇拝せずとも、信仰が成立していることになる。
教義にこだわるのではなく、「宗教」を実践する
宗教観を大きく分類すれば、自然崇拝を基盤とする多神教的コスモロジーと、超越的絶対神を仰ぐ一神教的コスモロジーの二つに分けられるが、人類の精神性が成熟すれば、やがて無神教的コスモロジーの段階に移行していくはずだ。実際に、そこまで行かないことには、「宗教」の超克というのはあり得ないし、「宗教」を原因とする対立や紛争もなくならない。ある意味では、日本人の宗教観は無神教的コスモロジーに近い位置にある。日本人の多くは、自分は信仰がないと思っているが、それは特定の教団に所属しないだけで、純然と無神論の人は皆無に近い。でなければ、初詣でにも墓参にも行かないだろう。日本人の場合、「宗教」が文化や生活の中に埋没しているので、それを自覚することが少ないだけである。
原理主義的な教義に心を支配されるより、「宗教」を日常生活の中で実践するほうが、はるかに健全と言える。つまり、平均的な日本人が宗教的なこだわりを持たないことは、むしろ素晴らしいことなのだ。
生命感覚の衰えている現代人
ところが問題となるのは、日本人の生命感覚が極度に鈍っていることである。その原因は重層的なものであるが、主な原因として大量消費経済の中でモノを粗末に扱うことが恒常化したことと、サイバー時代になって、人間の思考から身体性が欠落してしまったことにある。生命感覚が鈍ると、必然的に他者との共感や自然への畏敬の念が持てなくなる。別な言い方をすれば、人や自然との〈つながり〉を実感できないために、簡単に人を殺(あや)めたり、自然破壊をしてしまうのである。
たとえば、車の窓から何気なくゴミを捨てることができるのは、自然は自分の外側にあるものとしか意識できていないからである。自然との切っても切れない〈つながり〉を直観できていれば、ゴミのポイ捨てなど、身体感覚的にとうていできるものではない。
生命感覚としての「宗教」を自覚する
そのような些細な行為にこそ、日本という国の存亡の危機を感じる。自然とすら一体感を持てないわけだから、ましてや異宗教・異文化・異民族との共感など望むべくもない。グローバル化する国際社会の動きに逆行して、日本が開かれた社会になり切れていないのは、そういうところに原因がある。生命感覚が衰え、大都市の中で孤立感を深めていくと、どうなるか。初期の段階では単に無気力になるだけだが、やがて何らかの精神疾患にかかったり、鬱積するストレスが暴発して他虐的行為に走ったりすることになる。あるいは、自分の自我があまりにも脆弱なため、強烈な自我を持つ指導者が率いるカルト的集団に逃げ込むこともある。
結論として、教団組織としての「宗教」が不可欠とは考えないが、生命感覚としての「宗教」を個々人が自覚することは、現代社会において何よりも急務を要することであると訴えたい。
自灯明、法灯明
仏陀が入滅前に弟子に示した最後の教え。自らを灯明とし、自らをたよりとして他をたよりとせず、法を灯明とし、法をたよりとして他のものをたよりとせず生きよの意味。ここで大切なことは、「自」と「法」が別物ではなく、同じものであるという自覚をもつことである。