“不死鳥”男が魅せた復活劇
多くの日本人選手がプレーするアメリカの大リーグで、30歳代後半のベテラン投手が2シーズン連続で注目を浴びた。2006年は元横浜の斎藤隆(37)、07年は元巨人の桑田真澄(39)だ。いずれも条件の悪いマイナー契約でキャンプに参加し、開幕後にメジャー昇格を果たした。日本の球団を戦力外に近い形で退団し、自らの選手人生の最終章を求めてアメリカへ渡った2人は、それぞれのゴールを見つけた。桑田は8月14日にピッツバーグ・パイレーツから戦力外通告を受けたとき、意外にも晴れやかな表情だった。「もう十分。何も悔いなしです」。全力を尽くした充足感があった。成績を見れば19試合で0勝1敗、防御率9.43と、活躍したとは言い難い。しかしその経緯を考えれば、周囲のだれもが拍手を送る結果ではなかったか。
年齢からくる球威の衰え、オープン戦での右足首じん帯断裂という大けが。メジャーに昇格することすら難しいと思われていた右腕が、全米注目のヤンキースタジアムでデビューを飾り、イチローを三振に斬って取り、慣れない中継ぎとして6月の月間防御率2点台という堂々たる成績を残したのだ。
巨人では最後の3年間でわずか4勝しか挙げていない。足首の故障など万全の状態にはほど遠く、最終年となった06年秋、球団からは実質的な引退勧告を受けた。だが、その逆境をプラスに変えた。発想の転換とも言える。「巨人のエース」というブランドにこだわらなかった。戦力外通告を「クビ」と捉えるのではなく、「自由を得た」と解釈した。20年も封印していた思いを解き放ち、大リーグ挑戦を決めた。
もちろん将来の指導者として、日本では得られないものを身に付けたいという気持ちがあっただろう。「日本にもアメリカにも、良いところと悪いところがある。良いところをうまくミックスしていければね」。2月のキャンプ中から口癖のように言っていた。日米の野球の違いを実際に現場で感じられたことは、大きな財産となったはずだ。
南カリフォルニアで目覚めた守護神
斎藤は06年、36歳で大リーグにデビュー。シーズン途中から名門ロサンゼルス・ドジャースのクローザーをまかされ、07年が2年目となった。開幕から好調を持続してセーブを積み重ね、なんとオールスター戦に監督推薦で初出場が決まった。「何をやるにも遅すぎることはないんだな、と思った」。発表直後のロッカールームで、そう言って自らの野球人生を振り返った。「もうこんな年だから…」とチャレンジをあきらめがちな世代を勇気づける一言だった。メジャー挑戦は「思い出づくり」としか見られていなかった。というより、本人がそのつもりだった。前年は横浜でわずか3勝に終わり、オフに退団。マイナー契約でドジャースのキャンプに参加したが、開幕時も3A所属だった。それが早々にメジャー昇格すると、中継ぎとして結果を残し、クローザーにまで昇格。その座をシーズン終了まで守りきった。
成功の要因は、まず日本とは違う「乾いたボール」に悩むことがなかったことだ。それどころか、持ち球のスライダーが、より鋭く曲がることに本人も驚いた。しかも速球のスピードも日本時代より上がった。07年は99マイル(159km/h)を記録。メジャーの中にあっても堂々たる速球派にのし上がった。「あちこちにあった痛みが出てこないので、思い切って投げられる。南カリフォルニアの気候が合っていたのかも」と本人は話す。だが精神的な部分も大きかったはずだ。日本時代にあった数億円という年俸に応えなければならないプレッシャーや、けがが治らない焦りから解放された。加えて「この1球が最後でもいい」という開き直りが、好結果を生んだのではないか。
限界を突破する“情熱”
アメリカ側の選手たちの間でもベテラン投手の活躍が目立った。300勝を達成した41歳のグラビン(メッツ)、史上初の200勝&150セーブを達成した40歳のスモルツ(ブレーブス)。ヤンキースにシーズン途中から復帰した45歳のクレメンス。07年も先発ローテーションを守った41歳のマダックス(パドレス)は言う。「昔に比べれば、医学の発達が大きい。いい薬もある。トレーニング方法も開発されている」。もちろん、そういった外的要因もあるだろう。しかし、いつの時代も、どこの国でも、選手生活を続ける最大の理由は変わらない。「プレーするのが好きなんだよ。だから辞められない」。マダックスは、そう言って笑顔を見せた。野球への情熱が燃え尽きていないのだ。桑田も斎藤も、やはり同じだろう。2人は自らの心の声を信じ、新たな世界にチャレンジした。成績がどうあれ、彼らに一片の後悔もないはずだ。満足感をもって野球人生を終える。それこそ「成功者」と呼べる選手なのではないだろうか。