地に落ちたスター選手たち
アメリカの栄養補助食品会社BALCO(バルコ)が震源地になって2003年に発覚した薬物スキャンダルは、陸上スプリントの元女王、マリオン・ジョーンズや大リーグのスター選手を巻き込んで世界に波紋を広げている()。ジョーンズは07年秋に薬物使用を告白して記録抹消とメダル返上となり、08年1月には偽証罪で禁固6カ月の実刑判決も受けた。疑惑が取りざたされているアメリカ大リーグでは、07年末にジョージ・ミッチェル元上院議員による薬物調査報告「ミッチェル・リポート」が発表されたばかり。名指しされた300勝投手のロジャー・クレメンスら多くの選手が反論、抗議しているが、通算本塁打記録を樹立したバリー・ボンズや、かつての本塁打王マーク・マクガイアらを含め疑惑は晴れないままで、世界反ドーピング機関(WADA World Anti Doping Agency)からも対応の甘さを批判されている。ドーピングの歴史
ドーピングの語源は、南アフリカの先住民、カフィール族が祭礼や戦いの際に強い酒(dope)を飲んで士気を高めたことからきているとされる。古くは古代オリンピア競技の選手やローマ帝国の戦車競争の馬に使用した記録もあり、規則で禁止されていなかった近代オリンピックでも草創期から使われたケースがある。近年では1960年ローマ大会で自転車選手が薬物を使用して死亡したことから問題視されるようになった。70年代以降は東欧諸国が国の支援を背景に国際大会で大躍進した。裏には組織的な薬物使用があったことが分かっているが、検査逃れの研究も盛んで、実際に陽性反応が検出されたケースは少なかった。世界に衝撃を与えたのは88年ソウル・オリンピックの男子100mで世界記録を樹立して優勝したベン・ジョンソン(カナダ)が、筋肉増強剤の陽性反応が検出されて金メダルをはく奪された事件。他にも有力選手が禁止薬物を使用しているとのうわさはあったが、ジョンソンがスケープゴートにされた格好だった。なかでも華やかなファッションと圧倒的な強さで短距離の女王になったフロレンス・ジョイナー(アメリカ)への疑惑は消えず、98年に38歳の若さで急死した際も薬物の影響がささやかれた。2004年のアテネ・オリンピックでは、地元の男女短距離エースが抜き打ち検査を回避して大会を欠場。男子ハンマー投げでは優勝者が競技後の再検査を拒否したことで失格となり、2位の室伏広治が繰り上げで金メダルを獲得した。この大会は厳しい薬物検査が実施され、過去最多の22人の失格者が出た。摘発を恐れて使用を控えた選手もあったとされ、日本選手団が最多タイの金メダル16個を獲得できたのはこの影響だったとの指摘もある。
総合優勝者のタイトルはく奪
深刻なのは自転車も同じ。最高峰レースのツール・ド・フランス(Tour de France 仏)では1998年に8人の逮捕者を出した薬物スキャンダルが発生し、2007年には前年総合優勝者のフロイド・ランディス(アメリカ)が薬物違反でタイトルをはく奪された。著名な元王者や有力選手への疑惑も後を絶たず、ファンから大きな失望の声が上がっている。自転車や長距離走など持久力が求められる競技では、薬物以外に、自分の血液を抜いて競技直前に体内に戻す血液ドーピング(blood doping)もしばしば行われた。酸素を運ぶ赤血球が増加した分、競技成績がアップする仕組みだが、持久力が向上する薬物エリスロポエチン(EPO erythropoietin)ともども検査に引っ掛かりにくいのがやっかいだ。世界のプロリーグで薬物使用がまん延しているといわれるサッカー界では、天才マラドーナ(アルゼンチン)が興奮剤使用で94年ワールドカップ大会から追放され、深刻さが浮き彫りになった。日本では2007年、Jリーグ川崎のFW我那覇和樹がビタミン入りの生理食塩水の点滴を受けて処分された。我那覇側は正当な医療行為だったとしてスイスのスポーツ仲裁裁判所(CAS Court of Arbitration for Sports)に提訴、Jリーグ側と争っている。
北京五輪は大丈夫?
北京オリンピックを控える中国では、かつての東欧諸国にならった組織的な薬物使用の疑惑が絶えなかった。1990年代に驚異的異な強さを発揮した陸上中長距離の「馬軍団」(Ma’s athletes)にも特殊な漢方薬などで競技能力を向上させていたとの疑惑があった。94年広島アジア大会では水泳選手を中心に11人の大量違反者を出し、2000年シドニー・オリンピック前には違反摘発を恐れてか「馬軍団」選手、コーチなど40人が選手団から外された。今回のオリンピックでは、国家の威信にかけても自国選手の違反を封印し、本番での検査も厳しくするだろう。究極のドーピング
最新の科学技術では、瞬発力、持久力などそれぞれの機能別に人工遺伝子を注入して競技能力を大幅にアップさせる究極のドーピングも可能という。検出もほぼ不可能で効果はけた違い。しかし、どのような副作用が生じるかは予測不能で、生体の限界を超えた人造人間が誕生することも考えられる。フランケンシュタインの怪物を思い起こさせる「悪魔のプラン」だ。アスリートの葛藤
摘発する側との追いかけっこが続くが、そもそもドーピングはなぜいけないのか。「スポーツマンシップに反する」「副作用で健康を害する」など理由は挙げられるが、トップレベルのスポーツは世界が注目する一大イベントになった。商業化が進み、名誉とカネが同時に手に入るチャンピオンの座は魅力たっぷり。ルールの中でフェアに戦ってこそスポーツの価値があるはずだが、アメリカのスポーツ医学者、ボブ・ゴールドマン博士の1995年の調査では、オリンピック級選手198人中なんと195人が「金メダルが得られてバレないなら」禁止薬物を使用すると回答。「5年後に死ぬと分かってもすべての大会で勝利を得られるなら」との質問に対しても52%が「イエス」と答えたという。全盛期は短く、頂点を極めたいというアスリートの思いは単に金銭だけが目的ではないということだろう。