危機をチャンスにする
大気汚染とそれに伴う温暖化、海洋汚染と水資源不足、急激なスピードで進む乱開発など、人類社会が直面する環境問題には、逼迫したものがある。さらに人口爆発、核拡散、天然資源の枯渇、生態系をおびやかす生命科学の乱用など、地球規模の問題は山積している。激変する地球環境を契機として登場してくるに違いない新種の国家主義や民族主義が、新たな紛争や戦争の火種となることが大いに懸念される。
しかし、歴史はつねに矛盾に満ちている。危機はチャンスでもあるのだ。なぜなら、人類が目前の環境問題に対する危機意識と、地球環境の回復というグローバルな目的意識を共有することができれば、それは従来の紛争因となっていた国家・宗教・民族の違いを克服する絶好のチャンスとなり得るからだ。
「草の根の良心」は底辺からの努力
では、危機をチャンスに切り替える切り札は、何か。それは各国政府やその外郭団体、あるいは国連などの国際機関が行おうとするトップダウンの国際活動とは対称的な位置にある、一般市民による草の根的努力である。各地域の歴史・風土・慣習といったミクロの価値システムが、中央にいるエリート官僚の視野に入ることは稀である。国益を最優先する彼らが、途上国にマクロ的な経済援助を行ったとしても、その大半は現地住民の継続的な生活改善に役立っていない。
大地に這いつくばるようにして生きている途上国の、とくに都市部から離れた地域の住民のニーズに目を向けることができるのは、同じく大地に這いつくばるようにして、虚心坦懐に彼らに近づいていける人間だけである。ここで「草の根の良心」の具体例を挙げてみよう。
アフガンでの無償の診療活動と井戸掘り事業
一例目がアフガン復興に長年、身を呈して活躍しておられる中村哲医師の活動である。中村氏は無医村地域の医療活動を続けるうちに、地域住民の健康のためには、清潔な飲料水の確保が不可欠であることに気づき、井戸掘り事業を始めただけでなく、食糧確保のため大規模な農業用水路を建設することになった。当時の旧ソ連およびアメリカの強大な軍事力にさらされた戦時下に、一人の小柄な日本人医師が広大な砂漠を緑なす農地に変えてしまうなどと、誰が想像し得ただろうか。中村氏の灌漑(かんがい)事業が、部族間の紛争予防と、アフガニスタンの平和構築において、各国から派遣された軍隊よりも、はるかに実効力を持つものであることは、もはや否定できない事実となっている。
アフリカの一人の看護師の実践
二例目は、30年以上もアフリカでHIV(AIDS)感染者の治療と生活支援、感染予防にあたっている看護師・徳永瑞子さんの活動である。アフリカでは毎年240万人がHIV(エイズウイルス)感染のため亡くなっている。
その最大原因が貧困である。深刻な食糧不足のため、住民の体力が落ち、免疫力も弱まっている上に、HIVに感染した女性たちが売春をせざるを得ない状況にある。そこで徳永さんは、感染者が現金収入を得られるように洋裁を教えて、その製品を輸出したり、主食であるキャッサバを販売できるよう指導したりしている。恒常的な資金不足の中で、みずからも何度か病に倒れながら、献身的な働きを続ける徳永さんは、地元住民の尊敬の的であるばかりか、国際赤十字からもナイチンゲール記章を授与されている。
パレスチナとイスラエルの子供たちの共学
三例目は、イスラエルでユダヤ人とパレスチナ人の子供たちの共学を実現させたハンド・イン・ハンド・スクールの試みである。現時点では、幼稚園から小学校レベルまでしかないが、各教室ではユダヤ系とアラブ系の教師がペアになり、ヘブライ語とアラビア語を併用しながら子供たちの教育にあたっている。学校の運営に関しては双方の教師と父兄に、まったく平等な権限が与えられているという。私はイスラエルとパレスチナ自治区の間にそびえる分断壁の高さを見て愕然とした記憶があるが、両者の間に横たわる憎悪と不信の歴史を思えば、このような学校の存在自体が奇跡に近いといえる。
「草の根の良心」から「地球規模の良心」へ
これら三事例とも、個人の発案に始まり、それに共鳴した仲間たちの手によって、徐々に具現化したものである。細々と続けられる彼らの活動は、それぞれの地域が抱える問題の深刻さを考えれば、「焼け石に水」と言わざるを得ない。しかしそこに確実に存在しているのは、「草の根の良心」である。政府や国際機関による建前の平和政策が、かえって地域の不安定を招いてしまったりするのとは対照的に、彼らの地味にして勇気ある行動は、人類社会が抱える絶望の闇に差し込む希望の光となっている。
筆者自身は、パックス・ヒロシーマーナという願いを込めて、環境平和学の創成を提唱している。それは地球と人間を一体視する地球公共的な思惟のもとに、環境保護を平和構築の道筋とする文理融合型の新領域研究のことであるが、その使命の一つが、各地域に芽生えた「草の根の良心」を「地球規模の良心」へと発展させていくためのネットワーク作りであることを銘記しておきたい。
中村哲
(なかむら てつ)
1946年生まれ。医師。国内の診療所勤務を経て、84年パキスタン北西 辺境州のペシャワールに赴任。ハンセン病撲滅を中心にした貧困層の診療に携わる。86年、アフガニスタン無医地区山岳部に広げ無料診療を開始。パキスタンとアフガニスタンに1病院と4診療所を持ち無料診療を続けるほか、井戸掘りによる水源確保作業・食糧援助を行ってきた。さらにアフガニスタン復興に向けた農業再興や教育再開プロジェクトなどにも取り組んでいる。著書に『医者、用水路を拓く-アフガンの大地から世界の虚構に挑む』『丸腰のボランティア-すべて現場から学んだ 』『アフガニスタンで考える-国際貢献と憲法九条』などがある。
徳永瑞子
(とくなが みずこ)
1948年生まれ。医師・助産師、看護士。30年にわたりアフリカのエイズ医療の活動に携わる。NGO「アフリカ友の会」代表として、中央アフリカ共和国で、エイズ患者の治療と予防活動、エイズで親を亡くした孤児や栄養失調の子供たちのケアなど総合的な活動をしている。著書に『シンギラミンギ-アフリカでエイズ患者と共に生きて』『ザンベ!アフリカ・希望診療所―小さないのちの物語』『プサ-マカシ若き助産婦のアフリカ熱中記』などがある。
ハンド・イン・ハンド・スクール
イスラエルでは80%のユダヤ人と20%のアラブ人が暮らしているにもかかわらず、両者の間には根強い差別観と不信感が存在する。その状況を打破するために、一部の市民によって1997年に設立された、ヘブライ語とアラビア語によるバイリンガル学校。そこでは、ユダヤ人とアラブ人の教師と父兄に平等な権限が与えられおり、子供たちは双方の文化を学習する。現在では4校に増え、保育園から中学3年生までの学年があり、イスラエル政府にも認可されているが、一般の公立校と比べて補助費が少なく、外部からの寄付に頼っている。
パックス・ヒロシーマーナ
(Pax Hiroshimana)
ヒロシマからの平和