なぜ「宗教」ゆえに、人々は争うのか
拙著の一つに『人類は「宗教」に勝てるか:一神教的文明の終焉』(NHKブックス)というのがあるが、なぜそんな過激なタイトルの本を書いたかと言えば、人類社会が「宗教」への思い込みから脱却しないかぎり、世界平和が訪れることがないと直観したからである。どれだけ歴史のある立派な宗教であったとしても、そこに構築されている神概念や儀礼は、不特定多数の人間の思い込みが作り出したものである。だからすべてが間違っているというわけではなく、そこには人間の叡智と直観が織り込まれているがゆえに、過去からの貴重な精神遺産となっている。しかし、自分たちの思い込みの構築物を絶対視し始めた瞬間から、原理主義や狂信主義が動き出すことになる。
人類社会には大まかに言って、一神教的コスモロジーと多神教的コスモロジーが存在する。前者は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教のように超越的人格神を創造主と仰ぐ世界観のことであり、後者は日本の神道はじめ、世界各地の民族宗教のように、自然信仰を土台とした汎神論的世界観である。
一神教でも多神教でもない「無神教」を
その両者の間に優劣があるわけではなく、それぞれに豊かな民族文化を地球上に花咲かせてきた。とくに前者の一神教的コスモロジーは、神の意志としての法則性を現象世界に求める傾向が強いため、それが原動力となって近代科学と近代産業の発展に大きく貢献してきた。一神教が近代文明の生みの親と言っていいぐらいである。ところが現代になって、自然破壊や経済格差が絶望的に進んでしまい、近代文明も方向転換を余義なくされている。そこで、自然の力や生命の平等性を重視する多神教的コスモロジーの出番と言いたいところだが、こちらは民族や地域文化のローカル色が強く、普遍的世界観を論理的に説明づける思想体系を欠いている。
「牛」(真理や神)をめぐり、争いが起こる
そこで私が提唱しているのは、一神教的コスモロジーと多神教的コスモロジーを止揚することによって可能になる「無神教的コスモロジー」である。それは華厳哲学でいう「事々無碍法界」(じじむげほっかい)のことであり、超越的な神を語らずとも、現象世界の個々の存在に神の尊厳を見いだしていく世界観のことである。それは前回取り上げた「十牛図」で言えば、追い求める牛が消え、牧童がみずからの主体性を確立した境地のことである。人類の精神性がそこまで成熟しないかぎり、互いの牛を奪い合ったり、殺し合ったりするがゆえに、地上から闘争がなくなることはあるまい。
牛にこだわり、牛に振り回されているうちは、その人物の思考は浅い。神の隠喩(いんゆ)にしか過ぎない牛の色やサイズが異なると主張して、愚かな紛争を繰り返しているのが原理主義者である。
しかし、こういう愚は何も独善的宗教家だけではなく、誰でも知らず知らずのうちに犯してしまっているのである。既存の制度に拘泥して、新たな制度を試みようとしないというのも、牛への執着である。自分の狭い価値観の中で、他者を判断するのなら、それも牛に引きずられている証拠だ。牛の超克は、それほど容易なことではない。
「牛」にとらわれて、牛を見失う人々
どういう形にせよ、「牛」(世俗的価値観)の存在によって、こころの空間が大きく占められている人間は、思考が未熟であると言わざるを得ない。何しろ人生の妙味は、牛が消えてから始まるわけだから、そこに至らず、どれだけ偉そうなことを言ってみたところで、その思考は浅い。私が恐れているのは、現代世界における幼児性思考の蔓(まん)延である。とくに日本の場合、メディアの質の低さに象徴されるように、国民の民度が下がる一方である。人生体験が乏しいだけでなく、教養を積もうともしない人間が、愚かなテレビ番組やウェブサイトにうつつを抜かしているうちに、思考がますます幼児化していくのは避けがたい。
そういう世情であるから、今や産官学のリーダー的立場にいる人たちにも、幼児性思考が目につくようになった。
これは恐ろしいことである。先の太平洋戦争に踏み切ったのも、一部のエリート軍人の幼児性思考が最大の原因と言えるが、それによって、日本が失ったものはあまりにも大きい。知能指数(IQ)がどれだけ高くとも、精神の未熟は免れず、重大な判断ミスをしてしまうのである。
「牛」を内在化すると自他が見える
歴史は繰り返されるが、以前と同じ間違いを犯すのは、愚かである。昨今、不穏な動きを見せる北朝鮮が引き金となって、極東地域が一挙に戦争に巻き込まれるシナリオだって、そう非現実的なことではない。そういう非常事態に国家として正しい判断を下すために、幼児性思考を脱却できていない人間を責任ある立場に置いておくことは、極めて危険である。そういう時代だからこそ、「十牛図」に描かれている心理的展開をみずからも丹念に体験し、ついには牛を自己のうちに内在化させることによって可能になる独創的思考の持ち主が待望されるのである。
とくに、これからの日本の命運を担うような人物は、みずからは大愚に徹し、大所高所に的確な判断を下すだけの度量をもっていてほしいものだ。
事々無碍法界(じじむげほっかい)
存在するすべてのモノが独立し、しかも互いに妨げることなく、大いに調和しながらつながり合っている世界のこと。