なぜ少女が主人公になったのか?
現在と未来の「日本(人)」の全体に「大丈夫」と告げ知らせるためには、民衆的な神道や天皇(制)の力が必要であり、何より女性たちの力が必要である――。『すずめの戸締まり』は、そのようなアニメーション映画であると感じられた。
『すずめの戸締まり』の中核にある主題は、2011年の東日本大震災である。主人公である少女・岩戸鈴芽と「閉じ師」のイケメン大学生・宗像草太は、ロードムービー的な冒険を通して、日本各地の被災や荒廃を経験しながら、忘れられつつある東日本大震災の経験に再び対峙する。そして「日本(人)」に祝福の光を与えようとする。
人がいなくなってしまった場所には「後ろ戸」と呼ばれる扉が開くことがある。扉の中には死者の世界、「常世(とこよ)」がある。後ろ戸からは現世に災いが出てくる。それは「ミミズ」と呼ばれ、日本列島の下を蠢(うごめ)く巨大な力である。ミミズが引き起こす地震を防ぐためには、扉をきちんと閉め、鍵をかけねばならない。それが代々の「閉じ師」の仕事であり、草太は日本各地を転々と旅している。ミミズを封印するには「要石(かなめいし)」が必要だが、その一つを鈴芽がたまたま抜き取ってしまう。要石は猫に姿を変え(SNSで人気になった猫=要石はのちに「ダイジン」と呼ばれる)、また草太に呪いをかけて椅子に変えてしまう(この椅子は脚が一本欠けており、もともとは幼い頃に母親が鈴芽にプレゼントしてくれたものだ)。
最初に述べておけば、『すずめの戸締まり』という作品を、「神道/天皇とジェンダー」という政治的問題を完全に排除して正面から論じるのは難しい。
『すずめの戸締まり』では、主人公がこれまでの新海作品のような鬱屈した少年たちではなく、明るくポジティヴな少女となった。ここには大きな意味がある。(ちなみに、震災後の2011年5月に公開された作品『星を追う子ども』では、明日菜という少女が主人公である。『すずめの戸締まり』には、10年以上前の『星を追う子ども』の「失敗」を、震災経験を経てやり直す、自作をセルフリメイクして完成させる、という意味合いがある)
鈴芽という少女の中には、従来の新海作品的な少年たちが持つ、異性に対する恋愛上の喪失感、屈折、憂鬱さなどは見られない。鈴芽の草太に対する感情は、真っすぐでピュアである。ただし鈴芽の心には、震災で亡くなった母親への強い喪失感はある。また代理母としての叔母・環への鬱屈した感情がある。その点では「闇」がある。しかし最終的にはそれも美しくきれいに晴れていく。
新海監督は最初期の段階では、『すずめの戸締まり』を「なのか」と「たまき」という「少女二人のロードムービー」にする予定だったという(劇場で入場者に配布される小冊子『新海誠本』に採録されたインタビューを参照)。少女二人の物語が異性愛的なものを基調とした物語――鈴芽と草太のバディ関係には恋愛と友愛のどちらとも取れる曖昧さがあるが、作品全体を通して異性愛の恋愛の気配は濃厚にある――に変換されたことには、何らかの「日本的」な空気の問題があるのかもしれないが、いずれにせよ、新海監督は、近年のディズニーの『アナと雪の女王』以降の、あるいはマーベルの『ブラック・ウィドウ』や『キャプテン・マーベル』等の時代精神とも共鳴するような、日本版のシスターフッドの物語として『すずめの戸締まり』を構想していた。
そのシスターフッド的なものの痕跡は、一応、完成した映画の中にも残されている。鈴芽は旅の過程で、愛媛県の民宿の娘・千果や神戸でスナックを経営する二児の母親・ルミの協力を得て(彼女たちと別れ際にハグを交わすのも印象的である)、また叔母との関係や死んだ母親の記憶とも向き合い、日本各地を災いから救って、さらには草太を常世から救出するための力を蓄えていく。
鈴芽の名字「岩戸」はもちろん、日本神話上の「天岩戸(あまのいわと)」を連想させる。監督によれば鈴芽の名前は、日本神話の最高位の神とされるアマテラスオオミカミ(天照大神)を芸能行為によって岩戸から引き出したアメノウズメノミコト(天鈿女命)から来ているという(『新海誠本』)。すずめの旅路は、たとえば神武天皇の東征などをも自ずと想起させるものであり、被災地の痛みや地方の荒廃(少子高齢化、無縁社会化)をもすくいとって、芸能=文化の力によって天岩戸を開いて太陽の光を再び差し込ませるように、現在の「日本」を明日の「光」の中へと復活させようとする。(註1)
こうした視点からみれば、『すずめの戸締まり』は、少女が日本各地の庶民的な老若女性たちのシスターフッド的な力にも励まされつつ、祭祀王的な男性が国土を護るために自己犠牲的な人柱にならざるをえない現行のシステムを組み替えていく物語、という解釈も可能だろう。鈴芽はある種の巫女的/女帝的なフェミニティの力を注ぎ込んで、男権的な天皇(制)的システムのありかたを再構築していくのである。
女性と「天皇(制)的な」システムとの関係がテーマなのか?
前作の『天気の子』では主人公の少年は「世界を選ぶか、愛する人を選ぶか」というジレンマにおいて愛する少女の命を選択したわけだが(その点で『天気の子』は、巫女的存在の自己犠牲によって成り立つ世界の秩序に対する批判的意識をすでに含んでいた)、『すずめの戸締まり』では、いったんは東京大地震を防ぐために草太を要石=人柱として犠牲にせざるをえなくなるものの、最終的には「世界も愛する人も」、そのどちらをも救い出すことに無事に成功する。
このとき鈴芽は、もはや巫女的=助演的な少女というよりも、ほとんど、男性天皇的存在を凌駕する「女帝的」な力を持っているかのようにも見える。これはおそらく、『天気の子』の「世界を選ぶか、愛する人を選ぶか」というジレンマを乗り越えていくためには、鬱屈した孤独な男性たちの力だけではもはや足りず、女性的/女帝的な力が必要である、と新海監督が判断したということなのだろう。男性を文字通り「尻に敷く」女帝が持つ健康的で明るい力によって、新海監督は、『君の名は。』『天気の子』を経て、言うなれば災害ナショナリズム的な想像力(災害に向き合うことを通して国民の感情的一体化を組織していく、というタイプのナショナリズム的な想像力)を完成させたのである。
とはいえ、本作における女性と草の根的な民衆神道(大衆的な宗教のコスモロジー)、あるいは国家神道的なものとの関係は、よくも悪くも、微妙な曖昧さを最後まで残し続ける。実際、鈴芽の存在はあくまでも男性天皇的存在を支える民間人女性のポジションにとどまったようにも、誰のことも人身御供にしない「男女平等の天皇制」という変革案を実現してみせたようにも、はたまた誰のことをも人身御供にしないために「皇籍離脱」的な選択をしたようにも見える(ただし、人間は人柱にならないものの、その身代わりに、ダイジンという謎の存在=非人間は相変わらず、日本列島の人々を守るための要石として犠牲にされてしまうのだが)。
つまり『すずめの戸締まり』は、ある角度からみれば、日本を守るために誰かの自己犠牲を強いるというシステムを批判/解体しているようにも見えるが、別の角度からみれば、シスターフッド的な日本人女性たちの連帯の力によって、自己犠牲的な天皇(制)の仕事を補完/肯定しているようにも見える。この作品は、そのように折り重なるような曖昧さを中心に胚胎している。この本質的な曖昧さによって、色々な立場の人々が様々な角度から映画を鑑賞し、解釈することが可能になっている。それは確かである。しかし、こうした重層的な曖昧さによって何かが隠されてしまってはいないだろうか。
(註1)
新海監督は、自分が映画の中で取り上げた様々な土地がアニメファンたちの「聖地巡礼」の対象になるだろうことを、心のどこかで、敗戦後に昭和天皇が「巡幸」によって日本再統合を目指したことに重ねてはいなかったか。昭和天皇の北海道への戦後巡幸が遅れて1954年になり、さらに沖縄についてはずっと遅れて1987年の国体で訪問予定だったが、結局体調不良で訪問中止になったということと、『すずめの戸締まり』が表象する「日本」の国土には北海道と沖縄が含まれていないことは、無関係とは言えないのだろう。
(註2)
『新海誠本』のインタビューの中で新海監督はこう語っている。「例えば、ある災害で自分にとって大切な誰かが亡くなったような経験があるとして、それを事実として受け入れて、自分の中に定着させるのは時間がかかりますよね。災害に限らずとも、大切な人を喪ったことを乗り越えて、受け入れていくにはある種の段階があるというのは、心理学でも言われていることですよね。僕自身にも、震災に関してはそういうステップがあったのだろうとは思います」