ビジネス成功のために必要な知識を身に着ける「教養」がいま必要だ――。
このような文言を目にしたことはないだろうか?
しかし、その「教養」の中身を見ると、短時間でざっくり学べる名著の解説、インフルエンサーによる自己啓発セミナーなど……。
大澤真幸さん、大澤絢子さん二人の社会学者にこの現在の″教養ブーム〟の社会的背景などを語っていただいた対談の後編。後編では、なぜいま人文的な〝知〟に人気が集まらなくなってしまったのか? などについて語られる――。
*日本の大衆にとって〝知〟とは何だったのか?―タイパ・コスパ時代の「教養」と「修養」 前編はこちら
お金儲けした人が偉いのか?
大澤絢子(以下、絢子) 明治の〝成功ブーム〟のようなものは戦後に起こっているんです。昭和30年代、高度経済成長のなかで、〝成功〟をつかむための方法が盛んに説かれていきます。歴史が繰り返されているのが面白いなと思います。
見田宗介さんが昭和38年(1963年)に書かれた「ベストセラーの戦後日本史」という論文があるのですが、その頃ベストセラーになっている本は、ハウツーものばかりだと書かれているんです。即物的な知を獲得するための本がすごく流行っていると論じられていて、そこはいまとあまり変わらないと思います。
大澤真幸(以下、真幸) 「修養」も「教養」ももともとは、この社会のなかで、経済的に成功するとか、社会的に昇進するとは別の、本来的な人生の意味を生かすために必要なものだったはずなのですけれどね。
絢子 明治に新渡戸が諫(いさ)めたはずなのに。
真幸 そうですね。ある時期から、価値が逆転して主として経済的な意味で成功するための〝知〟になってしまった。
絢子 本来、生き方の問題と金銭的な成功はイコールにはならないはずですよね。しかし、お金を稼ぐためのハウツー本には必ずと言ってよいほど人生論が含まれています。生き方と金銭的成功は、分けて考えてよいはずです。しかし、そうはなっていない。そこには潜在的に、人間はお金を稼ぐだけじゃいけないんだという心理が働いている気がするんです。
真幸 そうですね。これが資本主義の〝魔力〟だと思うんです。お金を稼ぐ・儲けるという資本主義の成功というのは、ほかのどんな価値よりもくだらなく見えますよね。にもかかわらず、あらゆる価値に〝勝利〟するんですよ。
絢子 だから生き方や人格が素晴らしいだけでなく、商才のある人は称賛されますよね。実業家の松下幸之助さんや、稲盛和夫さんが人気な理由もそこだと感じます。日本の場合、人格的素晴らしさや努力がお金持ちになるための道であるかのように説かれる。ひとりひとり精神的な「修養」を積み上げていくことが、日本の資本主義発展のモデルとされるのです。
真幸 そうです。〝論語と算盤〟ですね。でも、価値を取り違えられているんじゃないかな。松下さんらがお金持ちになったから偉いと言われているように思える。努力したことではなくて、お金持ちになったから彼らが偉いと称賛されている気がします。お金持ちになるために「修養」が必要になる。それではダメなんですよね。
絢子 あの人が儲かっていないのは努力が足りないからだ。あの人が成功していないのは、怠けているからだというふうに考えてしまう。がんばれば、きっと成功できる、といった短絡的な思考になる。しかし、現実的には、がんばっても誰もが成功するわけではありません。
真幸 絢子さんの本のなかで「修養」を「宗教っぽいもの」と定義されているけれど、ある種、「資本主義」というのは「宗教」の側面を持つ。ただ、ちょっと逆説的な言い方になりますが、資本主義の宗教性は、本来の「宗教」と正反対の側面に現れるのです。本来、「宗教」というのは、いかに自分たちの目標が高貴で崇高ですばらしくかけがえのないものであるかを強調するんです。
絢子 身の〝清廉潔白さ〟を強調しますね。
真幸 そうです。たとえば、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905年)で書かれているように、キリスト教のプロテスタントのエートス(倫理的生活態度)が「資本主義」のモデルになっていますね。だけど、その「宗教」の受容の過程ですでに微妙な問題を含んでいる。僕はウェーバーが、キリスト教の流れを論じるときに重視した「苦難の神義論」がポイントだと思う。「苦難の神義論」は、神がいる世界でなぜ不幸や、理不尽な苦難や悪が存在するのかを問うものです。これを説明するのは難しいんです。だから、99パーセントの宗教は「幸福の神義論」に切り替えてしまう。こっちは善い行いをしていれば幸福になれるという考えですね。
「苦難の神義論」が受け入れられないのは当然で、幸福になれないなら、なぜ信仰するのかという疑問が生まれますよね。だから、普通の宗教は、信仰を持っていれば、うまくいくということを一生懸命、説くんですよね。現世で利益や幸福が得られるという論法に説得力がないときには、来世や死後ではよいことがあるとか、生と死の循環の外に出ればよいとか、そんな論法を使う。しかし、こういう論法にはほんとうはどこか安易なところをどうしても感じざるをえないのです。
見田宗介
みた・むねすけ 社会学者(1937年~2022年)。東京生まれ。著書に『現代社会の理論』、『時間の比較社会学』(真木悠介名義)などがある。
ひろゆき
本名:西村博之(にしむら・ひろゆき)実業家。1976年、神奈川県生まれ。インターネットの匿名掲示板「2ちゃんねる」を開設。
こんまり
本名:近藤麻理恵(こんどう・まりえ)片づけコンサルタント。1984年、東京生まれ。