ネット普及が生んだ問題
インターネットが普及して、世の中は本当に便利になりました。昔ならば大学の図書館で調べなければならないような専門的な論文や判例集、わざわざ取り寄せなければならなかった海外の判例集も、今やインターネットでの入手が可能になりました。調べたいことがある時、インターネットの検索エンジンに知りたい言葉を入力しさえすれば、関連語を含む膨大な検索結果のリストが瞬時に表示されます。これはとても便利な半面、困った問題も生み出しています。
たとえば、実際に検索を掛けてみると分かるように、インターネット上には古いデータがいつまでも残っています。それが、本人すら忘れていたはるか昔の、個人のプライバシーに関わることであれば、しかも検索のたびに表示されるのでは、迷惑この上ないことになります。人の記憶は薄らぎますが、インターネット上のデータは風化してくれず、いつまでも残り続けるのです。また、インターネット上の情報は複製が可能で、情報が拡散しやすい特徴があるため、いったん被害が生じると深刻化しやすいという特性があります。これを捉えて、最近ではデジタルタトゥーなどと呼ばれることもあります。
インターネット時代ならではの現象といえますが、人生を左右するような深刻な問題につながることもあります。そこで新たな権利として主張されるようになったのが、一定の期間が過ぎた情報などは削除できるようにすべきとする「忘れられる権利」です。
プライバシーを保護する「忘れられる権利」
この「忘れられる権利」に早くから取り組んだのは欧州連合(EU)でした。EUにはデータ保護法があり、1995年に採択された「EUデータ保護指令」が現行のEUでのデータの取り扱いに関する共通のルールとなっています。「指令」は国内法の上位にある法律という位置付けで、具体的な法の執行は国内法に基づいて行われます。
現在、EUはこのデータ保護法の改革を進めています。これは、インターネットの発展とともに現状と合わなくなった規制を見直し、抜本的な現代化を図るためのものです。法律案は「EUデータ保護規則案」と呼ばれ、成立するとEU各国で直接その規則が適用されるようになります。この規則案の中で、インターネット上の情報をどのように削除するべきかという観点からの立法の議論も行われています。
「忘れられる権利」という呼び方も、2012年1月25日に提案されたEUデータ保護規則案第17条の当初のタイトルに「忘れられる権利及び消去権(right to be forgotten and to erasure)」という文言が盛り込まれたことに由来します(ただし、13年11月22日の修正案では、単に「消去権(right to erasure)」となっています)。
まだ規則案の段階ですが、この内容は、管理者に対して、自らに関する個人データを消去させる権利、当該データの更なる拡散を停止させる権利、第三者に対して当該データへのリンク、コピーまたは複製を消去するよう通知する権利を定めるものとなっています。ただし、この規則案自体は、このあと説明する欧州司法裁判所の判決のように、必ずしも検索エンジンだけを規制の対象としているわけではありません。
スペインの裁判で世界から注目
日本でも「忘れられる権利」が知られるようになったのは、2010年にスペイン人男性がスペインの有力紙バンガルディア紙、グーグル・スペイン社、グーグル本社を相手に、スペインデータ保護局にプライバシー侵害に基づく救済申し立てをしたことがきっかけです。申立人の名前をグーグルで検索すると、申立人の社会保険料徴収のために差し押さえ・不動産競売手続きが行われるとの公告を載せた1998年当時の記事が検索結果に表示されるというのです。スペインデータ保護局はバンガルディア紙に関する申し立てについては適法に公表されたものとして却下しましたが、グーグル2社に対しては申立人に関するデータを削除する措置を講ずるように求めました。この決定を不服として、グーグル2社はスペインの最高裁判所へ訴訟を提起し、スペイン最高裁では欧州司法裁判所に意見照会を行いました。そして、2014年5月13日、欧州司法裁判所は、現行のEUデータ保護指令の下で、グーグルなどの検索エンジンで検索される個人に、いわゆる「忘れられる権利」を認める判決を下しました。
判決は、まず裁判管轄権について、たとえ検索エンジンがEUになくても、現地拠点が検索エンジンの提供する広告スペースの販売促進を行う目的で設置されているのなら、EUデータ保護指令の対象となるとしています。そして、検索エンジンの責任について、人名の検索結果から第三者によって公表されたウェブページへのリンクを削除する義務を負うとしました。削除の基準は、一定期間が経過した後の時点で不適切、過剰となっているような場合には、当初は適法であったデータ処理でも、時とともに、EUデータ保護指令に抵触するようになることもあるとしています。ただし、プライバシー権のような人権とインターネットのユーザーの利益とを比較衡量し、ユーザーの利益が上回る場合にはこの限りではないとの留保を与えています。
この判決で、欧州司法裁判所判決が示した「忘れられる権利」は、検索エンジンに対する削除請求権です。インターネット上にある情報そのものは消去できなくとも、その情報があることを教える検索結果が示されなければ、膨大なデータの中からそのデータにたどり着くことが非常に困難になります。つまり、その情報は多くの人にとって「存在しない」ものになるわけです。したがって、「忘れられる権利」は、検索エンジンで「探されない権利」であると言い換えることもできます。
未解決の問題も多い権利
社会的に注目を集めることとなった「忘れられる権利」ですが、検索エンジンへの削除請求権という視点で見ると、次のような問題を抱えています。第一に、削除の対象が情報や表現そのものではなく、ネット上の情報への単なるアクセス手段にすぎないはずの検索サービスであり、検索エンジンが、検索対象となる情報の提供者とは別に独立の責任を負うべきなのか、という問題です。
第二に、削除の判断は誰が行うべきか、という点です。検索エンジンを運営する一事業者であるグーグルが判断する方がビジネスを制約しないようにも思われますが、一方で、どの情報を見られて、どの情報を見られないようにするかの判断をグーグル自身が下すことは、グーグルをより強力な存在にしてしまうとの批判もあります。
第三に、検索の対象となる個人のプライバシー保護は人格権に関わる重要な問題ですが、検索エンジンを利用して情報にアクセスするユーザーの利益や、情報提供者の表現の自由も無視してよいものではありません。この両者のバランスをどのように確保するかが問われています。例えば、もし削除された検索結果にリンクしている記事が、特に政治家など公人の過去のスキャンダルを告発する内容であった場合には、そもそも削除が認められてよいのか、ということです。
権利確立に向け議論は始まったばかり
まだ多くの課題が残る「忘れられる権利」ですが、権利確立に向けての動きは進んでいます。EUでは、14年11月26日に欧州委員会の作業部会が「忘れられる権利」に関する包括的なガイドラインを公表しました。ガイドラインでは、検索エンジンが国境を越えたグローバルなサービスであることから、検索結果の削除を有効にするためには、EU域内だけでなく、アメリカを含む全てのサイトから削除されるべきであるとしています。また、グーグルの対応では、検索結果を削除する度に、削除される記事の執筆者やユーザーに削除の事実を通知していたため、かえって古い記事が注目を集めるという事態が生じていました。ガイドラインでは、そのような通知もなされるべきではないとしています。
EUの「忘れられる権利」への対応は、個人のプライバシー保護という観点で一貫した立場を取っています。