そこで「会議が終わったらウェブサイト上で公明正大な透明感の高い議論をしよう」ということになりました。ところがその後、反捕鯨側のいくつかの主要国は「公の場では議論をしたくない」と言う。つまり、反捕鯨側としては捕鯨国との交渉が公に見えることがダメなのです。
そこで、2018年の会議の第三ステップでは、IWCという一つ屋根の下で全く違う考えが共存できないかを模索しました。具体的にはIWCの下で二つの下部委員会を作って、片方は持続的捕鯨委員会(捕鯨賛成派)、片方は保護委員会(捕鯨反対派)にして、お互いが決めたことを上に上げていく。そして基本的には互いに邪魔しないようにしましょうという「共存提案」をしました。しかし、残念ながらこれも総会で否決されました。
一方、18年のホスト国で急進的な反捕鯨国であるブラジルは「フロリアノポリス宣言」を出してきました。これは「国際捕鯨委員会は進化しました」「今後はクジラの保護のために頑張りましょう」という宣言で、ある意味で日本の共存提案への反対声明だったのです。これが可決されてしまいました。
日本は2018年のIWCが終わった9月の時点ではまだ脱退を決定していませんでした。その後、安倍総理まで含めて議論が行われ、12月末に菅官房長官の脱退発表となったという経緯です。
実は、私は「共存提案」を出すときに「一緒に脱退通知してはどうか」と言ったのですが、その案は日本政府の中で通りませんでした。脱退通知をしていれば、日本の本気度が国際社会にも伝わるし、日本国内でもそれを受けてもっと透明性のある議論ができたのではないかと思います。
クジラ保護の仲良しクラブに変質したIWC
佐々木 なるほど。長い交渉のプロセスを経て脱退に辿り着いたということですね。2018年のIWC総会では、森下さんは日本政府代表ではなく、議長を務められたわけですが、議長という立場になったことで何か新たに見えたことはありますか?
森下 議長の立場から見ると、IWCが変質しているのがより明らかでした。多くの参加国・参加者の興味が、科学委員会も含めて、クジラの保護の方に向いているのです。話し合われるのは、定置網などで他の魚に交じってクジラが捕獲されるとか、気候変動でクジラの生息環境が悪くなるとか、そんなことが中心になっています。
以前は、科学委員会に200人近い科学者が集まって、日本の調査について、クジラを捕るか捕らないかで、喧々諤々の議論をしていたのですが、今はそんな議論に興味のある人はほんの一部です。
特に若い科学者は、自分たちが今までやってきた気候変動と海洋生態系の関係、混獲などの問題について論文を出す方が大事だと思っています。中立の議長の立場から見ると、反捕鯨国は、捕鯨を続けている日本やノルウェーを、明治維新が終わってもまだチョンマゲと刀を持って歩いている人のように見ていることが窺えました。少し前までは倒幕だ、幕府側だとお互いに本気で戦っていたのが、もう勝負がついて維新政府はできている、と。反捕鯨国からすると、すでに勝負はついているという感じで、IWCも見かけ上は「クジラ保護クラブ」で和気あいあいとやっている印象が非常に強くなったので、対立してピリピリした雰囲気になることは減っています。
南極海への固執はなかったのか?
佐々木 日本が南極海で続けている調査捕鯨は、日本が批判される大きな要因の一つです。これを放棄すれば、沿岸捕鯨を認めてもいいという提案が過去に反捕鯨国側からあったにもかかわらず、日本側がかたくなに拒否して、南極海での捕鯨にこだわった、と報道などでは言われています。では、なぜそのときの提案に応じなかったのでしょうか、そうしておけば今回IWCから脱退する必要はなかったのではないか、という批判もあります。
森下 それは全く間違いですね。日本は拒否していないんですよ。そのアイルランドからの提案が議論された97年以降のIWCの記録を調べれば明らかですが、日本は「満足はしていないけれども、提案そのものは議論のベースになる」という言い方をしました。ニュージーランドやアメリカは、この提案をベースに議論せざるを得ないだろうと、中立国に近いともいえる主張をしていました。しかし、オーストラリアや、近年反捕鯨勢力として大きな影響力を持つようになったブラジルを中心とする南米諸国などは、沿岸捕鯨も全く認めないという主張のままだったので、結局その提案は失敗したのです。
佐々木 今回の脱退で、国際捕鯨取締条約に基づいて南極海での調査捕鯨ができなくなるわけですが、日本政府として南極海へのこだわりは、なかったということですか?
森下 IWCを脱退することによって、日本は「今後南極海へ行きません」と宣言しているわけではありません。50年後、100年後になるかもしれませんが、将来、やっぱりクジラが動物たんぱくとして必要だというときのために、目視による調査はずっと続けてデータを取り続ける責任が日本にはあると思います。
IWCを脱退して南極海での調査捕鯨をやめても沿岸で確実に商業捕鯨を再開するか、あるいは妥協の余地がない中で全部を失いかねないことを覚悟したうえでIWCに残って粘り強い交渉をやるか。そういう判断を迫られた状況でIWCを脱退することを決断したわけです。国際交渉の中では100パーセント取るというのはあり得ない。反対に、完敗するわけにもいかないわけですよ。
佐々木 今後、IWCを脱退したことで、ほかの漁業交渉にも影響が出ることを懸念する人がいます。森下さんは、IWC以外にマグロなどの漁業資源を管理する国際会議でも交渉してきた経験がありますが、そうした懸念についてどう思いますか?
森下 いや、影響はないでしょう。ほかの漁業交渉でIWCのような状況になったことはないですから。例えばマグロの資源量が減少している問題が出てきても、マグロ自体の利用が否定されて漁獲枠がなくなることはなかったし、お互いに話をして物事を決めています。IWCではそうした現実的な交渉ができていないのです。