日本の復興を支えた中央集権体制
長らく続いた自由民主党中心の政権は、いわば霞が関官僚との二人三脚で成り立ってきた。政府が1994年12月に「地方分権推進大綱」を閣議決定した直後の「分権改革シンポジウム」で、当時自民党幹事長だった加藤紘一氏は次のように述べている。「この間まで我々自由民主党と中央官庁は、言うなれば永遠に切れることのない運命共同体でございました。言うなれば、我々にとって中央官僚は妻であり、長男であったという感じなんです」(「自治総研」95年2月号)
実に率直な意見だ。そして、そのように国が中心の、与党と官僚制が主導権をもってやってきたこの国の政治・行政は、あるときまで確実に国民の「幸せ実現」に寄与したと言える。地域開発政策を通じた工業化によって、過剰となった農村人口を都市へ誘(いざな)い、働く場を提供した。これらが高度経済成長の基盤をつくり、政府は潤沢な財源で道路・河川・上下水道などの社会資本を充実させ、教育・福祉・衛生・安全などの行政サービスを高水準まで引き上げることに成功した。同時に「どこでも、だれでも」という、地域と階層を超えた平等を実現した。
このような成功を導いた秘訣は、中央集権的な政治・行政の体制にあった。第二次世界大戦後の復興を果たしたら、次はさらなる経済発展という、国が目指した目標と、国民が求めた「豊かさ」実現への夢とが一致したことが、この体制の政策執行を支えた。
画一の政策が通用しなくなった
しかし、国民の所得が向上し、経済的な「豊かさ」が達成されると、「豊かさ」の意味が人により、地域によって異なってきた。要するに、人々の求める「豊かさ」が多様なものになり、「皆と同じになる」ことよりも、「自分らしさ」(個性)が大切だという風潮のなかで、これまでの集権的画一の政策が通用しなくなった。北海道から沖縄まで同じ建築基準でいいはずがない。雪国には雪国の過ごしやすい住宅があり、南国には南国の過ごし方があるはずだ。さらに、それぞれのまちの特産物や歴史遺産を生かした個性的なまちづくりをしたい。それには地方で、あるいは都市で暮らしている人々自身が、どんなまちを、どんな暮らしを欲しているか、しっかりと表明していくことが肝心だ。これまでのように、霞が関と永田町で「こうすれば幸せになれる」という方式で決めてきたやり方は、いまの時代に通用しないことが明らかになった。
また、日本を包む世界の状況が大きく変わった。かつては日本の「ものつくり」が、安い労働力と輸入技術の応用で世界市場を席巻する一方、アジア諸国からの食料輸入に依存して、農林漁業へのてこ入れを工業に振り換えて、成長企業を増やしてきた。しかし、世界が新たな産業への転換に備えるなかで、日本はその対応に手間取っている。街にはホームレスが、家庭にはニートが、職場には非正規労働者が増え、救済の手を待ち望んでいる。
70年代半ばからの社会と世界の変化に、集権的な体制は適応力を発揮することができず、国民の満足度を高めることができなかった。これまでの中央での決定が全国を牽引(けんいん)していくというやり方から、地域分散型の決定へ、国民や労働者が近くで参加できる決定へと組み替えていくことが必要になった。こうして、与党政権と官僚制が国民から見放されて政権交代が起きた。
民主党が掲げる「地域主権」の課題
民主党は、「霞が関を解体・再編し、地域主権を確立する」ことを政策の柱の一つに掲げている。上の一連の流れからして当然のテーマだ。これを実現するための方策として、「行政刷新会議」を設置して、すべての事務事業を点検、基礎的自治体でできることは、その権限と財源を移譲する、としている。権限を市町村に移譲するというのは、地方分権にかなったやり方だが、財政危機と国からの行政改革要請のもとで職員を減らしており、仕事が増えることを望まない市町村もあるはずだ。国の決定で、一方的に「これをやりなさい」というやり方は旧来の手法に属する。
その意味で、やはり新たに設置するとしている「国と地方の協議の場」で、どのような事務を市町村に移すべきか、それにはどれくらいの事務経費がかかるか、などについて協議することがあってよい。だが、この協議の場で何を議論するのか、決定するのか、聞き置くだけか、国会との関係はどうか、などが不明確なので、早急に固める必要がある。
かつて、地方六団体の研究会が提言した協議の場「地方行財政会議」は、(1)国と地方の役割分担のあり方、(2)国による関与・義務付けのあり方、(3)地方が処理する事務の経費にかかる国の補助負担金のあり方、(4)地方税財政制度のあり方、(5)地方への新たな事務または負担の義務付けとなる法令、施策等、を協議事項としていた。
いずれにせよ気がかりなのは、「行政刷新会議」の役割と関係だ。「国と地方の協議の場」と協議事項をどう分担するのか、地方の代表はそれぞれにどのようなかたちで選出されるのかなど、今後への課題は多い。だが、結論的に言えば、集権的なやり方を改めていくには、まずこのような協議の場を設定していくことが現実的ではあろう。
補助金を廃止した後の分配が問題
集権的な体制のもとでは、国と地方の関係はあたかも「上下・主従関係」のような様相を呈していた。しかも、それは事務執行に関する統制以上に、財政的な関係が色濃く反映していたと言われる。その一つが、仕事の多くは地方で実施しているのに、地方の歳入は少ないということだ。その差額を国からの移転財源で賄っているのだ。これを最低でも全体で5:5にしようという強力な意見がある。さらに、平年度で10兆円を超える国庫補助金を、自治体の必要な事業に使えるようにすることなども主張されてきた。地域での公共事業に補助金が交付される場合、その事業の詳細と、補助金の使途を細かく決めた交付要綱を各省庁が持っており、事業の自由度もきわめて低いものだからだ。
実は小泉純一郎政権の2005年、国による財政統制を廃して自治体の決定で使えるように、(1)国庫補助金を減額し、(2)それに見合って地方税源を拡充するとともに、(3)地方交付税を見直すという、いわゆる「三位一体の改革」が実施された。しかし、国の構造改革が優先されるなかで、(1)については補助率のカットに終始し、(2)については所得税の一部移譲がはかられたものの、(3における5兆円超の地方交付税カットで相殺される結果に終わった。その結果、地方住民の参加する決定によって、必要なところに必要な予算をつけていくという「自治財政」の実現は、ますます遠のいていった。
民主党は、財政に関しては補助金を廃止して、使い勝手のよい「一括交付金」に変えると言っている。補助金廃止は、戦後すぐの「シャウプ勧告」から言っていることだが、廃止した額をどのように地方で自由に使えるように配分するかが問題だ。だがその前に、補助金をエサに地方自治体を操ってきた各省庁の抵抗は目に見えており、「霞が関を解体・再編」するという目標を達成することと根は一つだ。
(後編へ続く)