「固有の領土」という言葉がある。だが「生来の」「もともとの」という意味の形容詞が領土に冠せられる無意味さは昨今、多くの識者が指摘するようになった。千島も沖縄も、もともとの日本(ヤマト)のものではないことは自明であり、海に浮かぶいくつかの島や岩は元来、航行の目印や漁労のために利用される場所にすぎなかった。外務省は「固有の領土」を「一度も外国領になったことがない領土」と説明するが、これは「固有」という単語の本来の意味ではない。さらにこの言葉は英語などに置き換えることが難しく、「固有の領土」だと相手に主張しても、法的な効果はほとんどもたない。そもそも「固有」の主体たる「日本」の範囲が、古代のヤマトから、ユーラシアまで進出した「大日本帝国」、そして戦後の現在まで、様々に伸縮してきた以上、どの陸域が「もともとの日本」なのかも明瞭でない。
にもかかわらず、生活感を感じさせないがゆえに、かえって国民としての一体感を情緒的にイメージさせる「固有の領土」は、日本人の多くを高揚させる。その結果、自意識を肥大させ、遠くの島にロマンを投影しながらも、島に暮らし島を使う人々の具体的な営みを想像することができなくなってしまう。
「境界地域」の現実から考える
現在の日本の境界が海にあるかぎり、私たちは海を「固有」の名で囲い込むべきではない。領海の無害通航権が外国船に認められ、「領海侵犯」が一般的な意味で成立しないことに見られるように、海のルールは陸とは異なっている。これは海を「公共財」ととらえる世界的な認識の広がりに依拠している。陸域の経験が主たる中国は今、少しでも多くの海を囲い込もうとしているように見える。日本も、中国にならって、周りの海を囲い込もうというのだろうか。だが、海の囲い込み競争に未来があるようには思えない。これまでの日本は、アメリカをはじめとする多くの海洋国家と同様に、「自由で開放された海」の価値を何よりも重視してきたはずだ。ところで「固有の」という表現には「決して喪失することのない(してはいけない)」という含意もあるようだ。実態は「固有」であるなしにかかわらず、境界は動きうる。国民の多くが、今の日本のかたち(国境)がいつまでも続くと思い込んでいたら、希望は裏切られるだろう。沖縄県与那国町および竹富町、長崎県対馬市、北海道稚内市など、「領土問題」に直面していないものの、等しく日本の海の前線に面した境界地域の自治体も今、過疎化や漁業不振といった厳しい現実を前に、未来を悲観し、悲鳴をあげている。このまま放置しておけば、境界地域は「空洞化」し、機能しなくなってしまうかもしれない。隣国との政治的な綱引きや「囲い込み」競争に目を奪われる前に、自分たちの空間を今後どのようにマネージしていくのか、「公共財」としての海をどのように開かれたかたちで利用していくのか、境界の現場の視座に立って考えることが何よりも求められている。