繰り返しになるが、全ての行政情報は開示されるべきという前提を確認した上で、その原則が適用されない秘密情報が何であるかを特定するのが、民主政治の原則である。現状はその順番が逆さになっている。それゆえ、保護法はより徹底した情報公開法とセットで議論されなければ、反民主的な法律のままに留まる。具体的に言えば、保護法のように「何を秘密とするのか」ではなく、民間専門家が提唱した「国家安全保障と情報への権利に関する国際原則」(ツワネ原則)が指摘するように、「何を秘密にしてはならないのか」から議論をスタートさせなければならない。それが、民主政治での情報の「公開」と「秘密」のバランスを考えることにつながっていく。
民主政治の土台から始める
日本の情報公開法(01年)と公文書管理法(11年)は近年になって施行されたものだ。だから過去の日本の外交交渉の経緯なども、アメリカの公文書公開制度を利用して報道・研究されてきた。また、法律の施行による情報開示請求を恐れて、各行政の現場では施行前に、少なくない公文書が秘密裏に廃棄されたといわれている。すなわち、日本は自前で自らについての情報すらも、十分に管理できていないのが現状であって、これも諸外国からみて、日本政府の能力が不信の目でみられる原因になっている。
時の政府は自らが考える国益に基づいて統治に都合の良いように法律や制度を運用しようとするかもしれない。そうした短期的な判断を、事後的ではあっても、長期的かつ反省的に検証し、将来に活かすのかは主権者に課されている役割と義務である。こうした役割と義務を十全に果たせるような法律や制度を確保しておくことこそが、国の繁栄を約束する。そのような法律や制度がなければ、過去に何を間違い、同じような間違いを犯さないためには何をどのように反省すべきか、その反省を未来にどのように活かしていったらよいか、を考えることができなくなってしまうからだ。
制度や法律のあり方だけでなく、その制度や法律をどう利用するかは、その国の政治家や主権者の感性によるところが大きい。今まで、閣議の議事録を作ることはおろか、NSCの議事録策定が焦点となっている日本のような国では、そもそも民主政治の土台作りから着手していかなければならないことを意味している。
反省と検証の機会を奪われた政治は長続きしない。自らの国の歴史を振り返り、何をどこで、どのように、なぜ間違ったのかの検証を怠ることが、いかに大きな被害をもたらすのかを、日本人は2011年の原子力事故で学んだはずである。歴史家E・H・カーは、歴史とは、過去の事件と未来の諸目的との間の対話のことである、と述べた。そのような対話を禁じる法律は、やはり反民主的なのである。