高度成長期に「唯一成功した社会主義国」と皮肉られたことのある日本。しかし、バブル崩壊後、所得格差が拡大し、この「成功した社会主義国」も崩壊したといっていいだろう。そんななか、いまだ国が何とかしてくれるだろうと考える「おまかせ民主主義」の人々がいると指摘するのはジャーナリストの堀潤さん。そこからの脱却が必要という堀さんに、お話をうかがった。
「おまかせ民主主義」とは何か?
まずは「おまかせ民主主義」とは何か、ということからお話ししたいと思います。
僕が考える「おまかせ民主主義」とは、基本的には「当事者性を持たない民主主義の参加者たちで構成されている社会」ということです。具体的に言えば、政治家や企業家、家族、友人、クラスメートなど、自分ではない“誰か”が実行してくれると考え、自分は当事者になろうとしない、ということ。さらに言えば、当事者にはならずに評論するだけという側面もあり、そんなことではいつまで経っても世の中は、自分たちが望むような未来にはならないでしょう。
僕がNHKを辞めたいちばんの理由は、そうした評論する側、批評する側ではなく、当事者の立場になりたいと思ったからです。
NHK Eテレで「ニッポンのジレンマ」という人気討論番組があります。その番組を起ち上げ、各界で活躍されている若手の方々と一緒に、日本に対し、あるいは日本の若者に対し、「こうあるべし」とさまざまな提案をしました。そんな中で、提案するだけではなく、責任を持って自分で実行すべきではないか、と考えるようになりました。
当事者ということでは、印象深いエピソードがあります。ある時点まで僕は、街頭での一般の方へのインタビューの際に、「日本がこの先どうなればいいと思いますか?」と質問していました。そうすると、皆さん批評家としては非常に弁が立つのですが、実行者としての案が出てこない。そこで、「日本が良くなるためには、あなたは何をしますか?」という質問に変えたところ、質問された方々が、自分は何ができるかを前向きに考え始めたことを実感できました。
しかし、こうした問いかけ型のマスメディアはまだまだ少ないと思います。
メディアの変化で多くの発信者が出現
さて、メディアは、誕生したときから、情報を伝達する側、伝達される側に分けられています。
15世紀にグーテンベルクが活版印刷を発明し、それがルネサンスにつながったことは周知のことです。それをもっとも効果的に使ったのは、キリスト教の宣教師たちでしょう。当時は宗教といえばまさに力そのもの、国家の枠組みそのものでした。彼らは印刷された聖書を携え、新大陸に自分たちの文化圏を広げていったわけです。
やがて、新聞が登場し、一部の知識・インテリ層を読者の中心として、政治の駆け引きに使われました。19世紀になって印刷のコストが下がり、労働者階級も普通に新聞を手にする時代になります。このように情報が広く伝わっていくに従い、市民が発信者側にもなり、革命なども起きていきます。
しかし、メディアが商業主義的な媒体となった頃から、発信するには莫大なコストや権力が必要となり、市民はいつのまにか受信する側でしかなくなっていきます。極端な言い方をすれば、搾取する側(発信者)と搾取される側(受信者)にはっきり分かれてしまったのです。
けれどもインターネットの登場で、発信することが非常にローコストになり、誰もが発信者になれる時代がやってきました。今や月額のプロバイダー使用料だけで、動画の発信だってできます。
これまで、新聞、ラジオ、テレビと分断していたメディアも変化しています。新聞社がウェブ上で映像を流し、ラジオ局も音声以外にテキストで起こした文字を出しています。一般人はスキルが弱く、メディア・リテラシーもないから向き合う必要がないという考え方も変化して、テレビでは、視聴者提供の写真や動画が多く使われるようにもなりました。もはや誰もが参加できるフラットな場になってきているのです。
ただし、一方的な情報を提供するだけではなく、インタラクティブ、双方向性が重要です。受信者であり、かつ発信者であることが成立すれば、技術的な発展が拍車をかけ、大きな革命が起きます。
発信力を高めれば人生が変わる
よく誤解されるのですが、僕は既存のメディアを「壊そう」とは思っていません。映画やラジオ、テレビ、新聞、出版、すべて含め、一度生まれたメディアは死なない、なくなりはしません。だから壊す必要はない。そうではなくて、インフラの使い方が間違っているので、見直しましょうということなんです。
これに共感してくれる方々は多く、現在、新聞社や出版社、テレビ局の方々と一緒に、発信者の育成もしています。技術が進んでも、結局そこに参画する人の心が追いついていかないと、うまく利用されないのです。ですから今のうちに情報の使い手側に回れる人を増やしておきたいのです。
僕が「8bitNews」というNPOを起ち上げた当初は、「スマートフォンを使って、世の中をのぞいて見てください」という運動を広げることで、当事者性が芽生える機会を提供したいと思っていたからです。NHKにいた頃から目指していたものの、なかなかそこまでは至りませんでした。それならNPOでやりましょうと考えました。その際、宇野常寛さん(評論家)、駒崎弘樹さん(NPO法人フローレンス代表)、坂本龍一さん(音楽家)、辻仁成さん(作家、ミュージシャン)、津田大介さん(メディア・アクティビスト)、茂木健一郎さん(脳科学者)など多くの方々が応援してくださったのは、本当に心強かったです。
今ではそこからさらに発展して、発信者を育成しようとしています。ただし、ジャーナリストを育てることが目的ではありません。ジャーナリストは、毎日その問題について考え、追い続ける人じゃないとなれない。必要な人脈、蓄積された経験、豊富な知識、そしてそれをベースにした分析力がジャーナリストには必要です。
だから日常の仕事を持つ人がジャーナリストになるのはむずかしいことです。でも、レポーターなら可能です。たとえば、介護の仕事をしている人は、介護の現場をいちばんよく知っています。その現状を伝えることは可能です。
そうやって、自分が考え、行動を起こし、発信したことが誰かに届いたという実感があれば、その後の自分の選択には大きく何かしら影響を与えるはずなんです。
そんな体験者を増やすゲートを作るというのが、今の僕らの役割だと考えています。そうやって、一般人のスキルが上がることは、実はメディア環境のコンテンツの底上げにつながります。これは業界にとっても非常に大事なことです。
一つのメディアに依存せず「使う」ことが大事
僕が以前から言い続けていることに「パブリックアクセス」ということがあります。市民が国の財産である電波にアクセスして、情報を共有したり、自分が撮影した映像を流してもらったりする権利のことです。僕の中には、入局当初からNHKをパブリックステーションとして活用したいという思いがあり、退局後の今でも思っています。これが実現できれば、市民の発言権は劇的に変わることでしょう。
ここのところ、パブリックアクセスとは何かなど、話をしたり記事に書いたりする機会も増えました。