二つのポピュリズム
さて、このように今回の都議選において「二つのポピュリズム」が力を発揮したと書くと、読者からいくつかの疑問が湧き上がるかもしれない。例えば、2016年の都知事選で無党派層の支持を獲得し圧勝した小池百合子率いる都民ファーストの会は確かにポピュリスト的戦略にもとづいたものかもしれないが、それと安倍総理への「抗議集会」を同じポピュリズムとみなしていいのか? というものである。しかも小池知事は、「日本会議」に所属し、都知事就任直後に韓国人学校に土地を貸与する東京都の方針を撤回し、17年の9月には東京都が定例で行ってきた関東大震災の朝鮮人犠牲者慰霊のための追悼文を送るのを見送るなど、排外主義的な色合いがある。この「小池ポピュリズム」は、アメリカ合衆国におけるトランプ大統領やフランスにおける国民戦線のマリーヌ・ルペンたちの政治手法と同系列のものともみなしうるからである。実際、これまで多くの論者たちは、ポピュリズムを「大衆迎合主義」「反知性主義」と同義に扱ってきた。ポピュリズムとはまさに大衆への扇動により公共空間を破壊する「反動的」な政治手法であると論じられてきた。だが、ポピュリズムは邦訳すると「人民主義」「民衆主義」あるいは「国民主義」であり、幅広く定義するならば、「『人民』『民衆』あるいは『国民』の立場から、既成政治の変革を目指す運動と政治」である。既成政治の枠組みから疎外されていた人々――まさに安倍総理の言う「こんな人たち」――が、「人民」「民衆」あるいは「国民」の名のもとに幅広く結集し、要求の実現を目指すという運動と政治が、常に排外主義的な傾向を持つとは限らない。ポピュリストであるトランプに対抗し、民主社会主義的スローガンを掲げて大統領予備選で健闘したバーニー・サンダースもまたポピュリストであり、トランプ政権に対抗してアメリカ史上最大のデモを繰り広げた「ウィメンズ・マーチ」もまたポピュリズム的スローガンを掲げていた。そして日本も2011年3月11日の「複合震災」以後、脱原発、反安保法制などの課題に、数十万人が国会や官邸前に集まるデモを経験してきた。2015年の安保法制反対運動でSEALDsが掲げた「国民なめんな!」はまさにポピュリズム的スローガンにほかならなかった。
都議選最終日の秋葉原における「抗議集会」は、国内外で活発化している新しい大衆的結集の系譜の上にある。2011年のアメリカ「オキュパイ運動」、スペイン「怒れる者たちの行動」、アジアでは2014年の台湾「ひまわり運動」、香港「雨傘革命」、そして日本の脱原発、反安保の運動等々、いずれも、これまで公的政治空間に参加してこなかった人々が結集し、つながりをつくりあげ、SNSをはじめとする新しい技術を駆使し、伝統的な社会運動のスタイルを刷新しながら大規模な大衆的結集を実現してきた。そしてこれらの大衆的結集に共通しているのは、トランプ、ルペン、小池百合子の政治手法が名指されるポピュリズムとは異なり、傑出したパーソナリティを持つ政治家が不在の、「無名の集合体」であることだ。
このようにポピュリズムを捉えたならば、都議会議員選挙の「騒乱の10日間」は、まさに旧態依然とした都政・都議会の「少数派支配」に対して、異なる性格を有する二つのポピュリズムが襲いかかったという構図が浮かび上がってくる。2012年冬、極右ポピュリズムの台頭を予感させる秋葉原の大衆的熱狂の中で誕生した第二次安倍政権は、皮肉にも同じ場所で二つのポピュリズムが合流した大波に押し倒されることとなったのである。
ポピュリズムに抗しつつ、ポピュリズムとともにあれ
今の日本社会は、働き方、高齢化、子育て、アジアとの関係、原発問題等々、課題は数えきれないほど山積している。それに対して安倍政権は、「2020年」の東京オリンピックが日本の未来の安定のシンボルであるかのような幻惑を国民に与え、諸課題を先延ばしにし、国民の多数が望んでもいない憲法改正に力を注ごうとしている。他方で対抗する野党はまだまだ未熟で、既成政治を支えてきた企業や労働組合への信頼は地に落ちている。政治から疎外された、行き場のない膨大な無党派大衆が時々の「新党ブーム」に乗っかるものの、たちまちのうちにブームは去り、「新党」が離合集散を繰り返すというパターンがここ十数年続いている。人々のごくあたりまえの要求をしっかりと政治に反映させるための回路が先細っていることが、さまざまな種類のポピュリズムが台頭する原因である。つまり民主主義の危機こそがポピュリズムを生み出している。しかしだからこそ、民主主義再生の機会を開くためにはポピュリズムとともにあらねばならない。狡猾なデマゴーグが扇動するポピュリズム政治に対抗するためには、ポピュラーな大衆運動が必要だということを、トランプ大統領に対抗するアメリカの民衆は身をもって示している。
今回の都議選は、小池ポピュリズムと競合しつつ、「こんな人たち」が集合し、民主主義の価値を再創造する一つの機会であった。「ポピュリズムへの恐れ」を抱く安倍政権と、扇動的ポピュリスト政治家がせめぎ合う公的政治空間の中で、民主主義再生を求める大衆的な運動が果たす役割はこれまでになく膨らんでいるのだ。