栗林忠道中将以下2万人を超える日本兵が配備され、アメリカ兵も6万人以上が上陸し、1カ月以上にわたる熾烈な地上戦を繰り広げました。「硫黄島の戦い」における死傷者は、日本側が約1万8300人、アメリカ側が2万6038人。ただし、この期間はアメリカの視点に立った定義で、上陸以前から硫黄島への空襲は始まっており、また勝利宣言後も日本兵の抵抗は続きました。「硫黄島の戦い」の前後で亡くなった人を含めると、日本人の死傷者は約2万1900人と推計されています。
この中には、硫黄島から徴用された島民の多くも含まれており、地上戦に動員された103人中、たったの10人しか生き残らなかったことがわかっています。もともとの島人口のうち、1割近くが戦没したことになるのです。沖縄戦を指して、「民間人を巻き込んだ唯一の地上戦」と表現されることがありますが、それが正確ではないということが、近年の研究でようやく明らかになってきています。硫黄島の歴史については、夏井坂聡子著『硫黄島クロニクル 島民の運命』(2016年、全国硫黄島島民の会)がとても参考になります。
このとき配備された日本兵2万人は、当然、水と食料の不足に苦しみました。戦時下の物資不足に加え、1000人で暮らしていた島の人口が20倍になったとすれば、到底まかないきれるものではありません。また激しい戦闘で、島全体が徹底的に破壊されました。かつての住民が「楽園」と称した硫黄島は、飢えと渇きと恐怖が染みついた「玉砕の島」に書き換えられました。映画『硫黄島からの手紙』で描かれるような、草も生えない、住むに堪えない島だというイメージはこの後、固定化し、未だに政府が硫黄島の旧島民たちの帰島を許可しない理由として利用されることになるのです。
冷戦構造に組み込まれる小笠原
51年、サンフランシスコ講和条約によって、沖縄や奄美群島、小笠原諸島はアメリカの統治下に置かれることが決まりました。奄美群島のみ、それほど間をおかず53年に返還されますが、小笠原と沖縄の返還までには長い時間がかかります。
50年の朝鮮戦争勃発によって、小笠原と沖縄の戦略的な価値は飛躍的に高まりました。とはいっても、沖縄と小笠原では、その役割が異なります。沖縄は「示威と抑止」。そこに米軍という存在があり、核が置かれていることが周知の事実になっていました。沖縄に攻撃を仕掛けることは、アメリカとの戦争を覚悟することです。このように、アメリカの力を見せつける形で「盾」の役割を担っていました。ただし、日本本土の米軍基地や自衛隊も同じことですが、もしも敵から攻撃を受けた場合の脆弱性を、アメリカ政府は認識していました。
他方で、小笠原には「秘匿と反撃」、つまり隠された「矛」の役割がありました。56年から66年にかけて、小笠原に核弾頭や核ミサイル等が配備されていたことが後に明らかになります。しかし、当時、そのことは徹底的に秘匿されていました。この時期は、アメリカが同盟諸国に展開している基地に核を分散配備し始めた時期と重なっています。アメリカにとって小笠原は、秘密裏に核戦力を配備しておいて、日本列島が敵の手に落ちてしまった場合に、太平洋上から反撃するための拠点の一つ、という認識だったと考えられます。
とすれば、「盾」とセットで効力を発揮するはずの「矛」を、アメリカが返還したのはなぜでしょうか。
小笠原返還に至った理由とは
大きな理由の一つは、50年代になって原子力潜水艦が開発されたことです。海中からのミサイル発射システムが完成したことで、地上に核兵器を配備する戦略的な重要性が低下しました。
核兵器を持っている国は、自分が使うとしても、相手には使わせたくない。いざ使うときは、決して反撃を受けないために、相手の核を限りなくゼロに近づけなければなりません。しかし、海中を潜航している原潜に核が積まれているとすれば、それらすべてを確実に無力化することはほとんど不可能です。
撃つと、絶対に撃たれる。この状態を核抑止戦略用語で「相互確証破壊(Mutual Assured Destruction ; MAD)」と言います。これが成立すると、お互い核兵器を撃てなくなる。「核の手詰まり」という状況です。すると通常兵器が重要視されるようになります。通常兵器であれば、核よりも簡単に使用できる。結果、インドシナ半島を舞台としたベトナム戦争にアメリカが介入を深め、代理戦争が繰り広げられることになったのです。
原子力潜水艦の開発により軍事戦略上の小笠原の重要性が下がりました。それに加えて、ベトナム戦争も小笠原返還に大きな影響を与えました。
当時、多くの日本人にとって、連日テレビで報道される「北爆」は、ほんの数十年前に、アメリカから受けた空襲を想起させます。このことによって、世論調査で親米派が減り、中立を志向する層が増えるという結果を招きました。中立派が増え続ければ、日本国内に米軍基地を維持することが難しくなります。アメリカは日本の基地がなければ、ベトナム戦争を効率的に全うすることができません。
加えて、60年に結ばれた日米安全保障条約の第10条には、発効から10年後、どちらか一方が破棄を通告すると、そこから1年後に失効するということが定められています。70年はちょうどその節目でした。