申請書を書いても、管理センターの事務は土日は休みだから、許可が下りるのは月曜日以降になる。金さんは「せめて鎮痛剤を」とセンターに訴えたが、かなわなかった。そこで、韓国で軍隊経験のある金さんは自分のTシャツを破いて、応急的にインド人の足を固定した。結局、このインド人が外部の病院に行けたのはその翌週となったのだ。こんなことは刑務所でもあり得ないのではないのか。
いつ外に出られるのかわからないという不安
MさんやPさんがここからすぐに出られる方法がたった一つだけある。本国に帰ることだ。だが……。
MさんもPさんも「帰れませんよ!」とアクリル板の向こうから声を上げた。Mさんは「帰ったら最後。間違いなく投獄され、拷問に遭う。下手すれば死刑です」と帰国を恐れている。
2010年に来日して、そのオーバーステイがばれて、2016年7月26日から収容されている中国人のCさんは、1989年に世界的なニュースとなった天安門事件を機に設立された中国政府を批判する世界的組織「民主中国陣線」の理事を務めている。これは確かに帰国すれば逮捕と長期拘留が待っている可能性が高い。
「劉さん、知ってますよね」とCさんは私に尋ねた。
中国での民主化運動や人権活動を展開したことで、当局に何度も逮捕され、2010年にノーベル平和賞を受賞した劉暁波(リウ・シャオポー)氏のことだ。劉氏は危篤状態になるまで拘留されたままで、昨年7月13日に61歳という若さで死去する。
中国では捕まったら刑務所生活は長い。だから帰れない。「でも」とCさんは言葉を続けた。
「私には二人の娘がいます。上は14歳だから私の置かれている立場を理解している。でも下の8歳が、まだ状況を理解していません。早くここを出たい。確かに私はオーバーステイをしたけど犯罪は犯していない。なぜ2年以上もここにいるのでしょうか。仮放免申請はもう8回していますが、いつも不許可。もう心が疲れました……」
この状況を、毎週水曜日に被収容者への面会行動を実施している市民団体「牛久入管収容所問題を考える会」(以下、「考える会」。茨城県つくば市)の田中喜美子代表は「それこそが法務省の狙いです」と断言する。
「条件を満たしても仮放免を認めず、疲れ切った被収容者が帰国を願い出るのを待つ。そうしたら、翌日には国はもう帰国の手はずをとっていますから」
収容者にとって最大の問題は「自分がいったいいつ外に出られるのか」ということだ。仮に収容者の身元特定や母国での活動履歴の確認などに時間がかかるとしても、長い人で5年も収容されているのは異常な事態と言わざるを得ない。
私が面会したブラジル人のKさんは、かつて何度も来日しては正規に就労していたが、あるとき、悪い仲間に誘われ窃盗に加わってしまった。Kさんは1年9カ月を刑務所で過ごし、出所後、在留資格を失っていたために入国管理センターに送られた。以後、2年以上収容されているが、Kさんの訴えは単純明快だ。
「私は自分の犯した罪で刑務所での収監期間がわかっていました。まじめに過ごせば刑期も短縮される。実際、私は仮釈放されました。でも、ここでは収容期間の基準がまったく教えられません。まじめに過ごしても早く出られるわけでもない。私はいつここを出られるのでしょうか」
文化も習慣も宗教も違う国の人たち5人との6畳での生活。外を見ることなく過ぎる毎日。日本に住む子どもに会いたいがために、ブラジル帰国を拒否しているが(帰国すれば再入国は難しくなるので)、子どもとはまったく会えていない。想像しただけで、凄まじいストレスにまみれた生活だ。
そして、これに耐えきれなかったのか、入国管理センターではたびたび収容者の自殺や自殺未遂が起きている。
2010年には2人が自殺、2014年には2人が病死、2017年にはベトナム人が病死。そして、今年4月13日にはインド人難民申請者が自殺した。
じつはKさんも自殺未遂を2回起こしている。
1度目の首つり自殺は失敗したが、意識を失ったKさんは、さすがに、すぐに外の病院に救急搬送された。そして、病院では当たり前のことだが、病室のドアが施錠されず、病院内を自由に歩けることに束の間の自由を味わった。しかし、また入国管理センターに戻ると、そこは自由が制限され、明日も見えない日々。Kさんはこう語った。
「僕、今でも死にたいです。ここにいると、心がだんだん細くなります。首吊りに失敗したから、今度は手首切りたいです」
だが、私と話すことでKさんのそういう気持ちが薄まっていくのを私は感じた。それくらい、外の世界との接触は大切だ。「考える会」が毎週面会行動を行っている理由はそこにもある。
ところで、収容者の多くは現状に絶望しているが、いっそのこと、難民を当たり前に受け入れているヨーロッパやカナダなどに住もうと考えたことはないのだろうか? 私の問いに、MさんもRさんも「行きたい」と答えた。だが実現しない。前出の野津さんはこう説明する。
「それは無理なんです。日本から難民申請のために第三国へ行きたいとなると、その国に入国するためのビザが必要になります。ビザを求めて日本にある第三国の大使館に出向いても、日本は難民条約を批准しているので、日本で難民申請してください、ということになります。まれに家族が第三国で難民認定されるなどして、その方が日本から呼び寄せてくれるという形で第三国へ行ける人もいますが、ほとんどの方にそのような機会はありません。」
つまり、日本の難民認定申請者は日本で難民と認定される、あるいはその他の形で在留資格を得られなければ、帰国か、難民申請を繰り返して、就労は禁止されるなか、いつでも収容され得るリスクに怯えながら日本で生活を続けるしかないということである。
難民が受け入れられ安心して暮らせる社会へ
難民は毎年世界のあちこちで発生している。アフガニスタン難民、イラク難民、シリア難民、ロヒンギャ難民等々。そのつど、心ある人たちは、あちこちで募金運動をしたり、服や日用品を送る運動を展開したりしている。
だが、自分たちのすぐ足元に住む難民(申請者を含む)にはあまりにも関心が低いのが事実だ。彼らの中にはいわゆる偽難民もいるかもしれない。母国への送還も私は否定しない。だが、正当な基準もなく、家族にも会わせず、外出の自由も認めず、医療からも遠ざけているのは人権問題に他ならない。じつは国民の一定数も「偽難民は来るな」との意識を有しているのかもしれない。だが考えるべきはそこなのだろうか?
私事だが、私はかつてアフリカのソマリアの難民キャンプで2年間活動していたことがあるが、そこには食料配給を目当ての偽難民も一定数いた。私たちは彼らを追い出すことに力を割かなかった。今目の前で困っている人たちに可能な限りの支援をすることに力を割いていたからだ。
偽難民であろうが、観光ビザであろうが、日本に住みたい人はどんな手を使っても来る。彼らの排除よりも、いかにして、母国に帰れば迫害を受けるであろう人たちを庇護してその生活を保障するのか。まずそれを考え、その実現にこそエネルギーを割くべきだと私は考える。
とはいえ、国民の一定数に「偽難民は来るな」との意識があることも事実。しかしながらそれは、難民が置かれている環境やその実情を知らないことが大きな背景としてあるだろう。私も含めたメディアの役割が問われている。