米中対立と日中改善――。前回(3)は、この相反するベクトルの中で「板挟み」になっている安倍外交のジレンマを「自由で開かれたインド太平洋」構想の中に見た。日本の存在感と発言力が加速度的に失われたこの6年。米国と中国相手の「大国外交」では独自色を出せない安倍首相は、対ロ、対北朝鮮外交で「レガシー」づくりを急ぐが、思いは空回りするばかりだ。
「高値」でナショナリズムを煽る
安倍の対ロシア外交と対北朝鮮外交は驚くほど似ている。最初は高値をふっかけ、相手が乗らないと見るや値を下げてゆく。まるで「バナナのたたき売り」だ。バナナのたたき売りは寅さん映画でお馴染みだと思うが、外交となれば当然、たたき売りとは異なる。
それは詰めかけたヤジウマ(国民)の反応だ。ふつうのたたき売りであれば、ヤジウマにとって値下げは織り込み済み。香具師の巧みな口上を楽しめばそれでいい。
だが安倍外交はそうではない。「北方四島一括返還」と「全拉致被害者の即時帰国」という「高値」は、国民に両国への敵意とナショナリズムを煽る。値下げはそれに対する「裏切り」につながりかねない。これを「自縄自縛」と言う。
「安倍には一切取り合うな」
まず対北朝鮮。「外交の安倍」という永田町神話が虚妄に過ぎないことを立証するエピソードから紹介する。歴史的な米朝首脳会談が実現するキッカケになった2018年の韓国ピョンチャン冬季オリンピック。2月9日夜、安倍首相、ペンス米副大統領ら首脳級が開幕式レセプションに集まった。北朝鮮代表団を率いる金永南(キム・ヨンナム)最高人民会議常任委員長(当時) も出席した。このとき、安倍が金永南に声をかけたのだ。在京の北朝鮮消息筋が、そのときの様子を打ち明けてくれた。金はこう振り返る。
「隣に座った旧知のグテーレス国連事務総長と昔話に花を咲かせていた。遠くを見ると、安倍がひとり所在なげに座っている。文在寅・韓国大統領に促されて席を立とうとすると、日本の通訳が駆け寄り、続いて安倍も近寄り立ち話になった。彼は『平壌宣言と(拉致被害者の再調査を約束したとされる)日朝ストックホルム合意に立ち戻りましょう』と言うので、私は日本の植民地支配に対する謝罪と賠償が先だと答えた」
北朝鮮消息筋は、続いてこう打ち明けてくれた。「トランプ大統領が米朝首脳会談を発表した2018年3月初め以降、安倍政権はいろいろなチャンネルで日朝首脳会談の可能性を打診してきた。しかし平壌の答えは『一切取り合うな』」。
成果なく「値下げ」開始
その後、核・ミサイル問題と朝鮮半島の平和構築をめぐる情勢は急展開した。2回の米朝首脳会談をはじめ、南北首脳会談、中朝首脳会談に続き19年4月にはロ朝首脳会談も開かれた。核・ミサイル問題の「6カ国協議」メンバーで、首脳会談が実現していないのは日本だけ。「蚊帳の外」に置かれた安倍の焦りは募る一方だった。
安倍政権の北朝鮮外交には二つの特徴があった。
第1は、核・ミサイルより拉致問題を優先したこと。首相就任直後の2013年1月の所信表明演説で彼は、中国を念頭に領土防衛を挙げたあと、「そして何よりも、拉致問題の解決です。全ての拉致被害者のご家族がご自身の手で肉親を抱きしめる日が訪れるまで、私の使命は終わりません」 と、大風呂敷を広げてみせた。第2は、徹底した「圧力路線」。安倍が第1回米朝首脳会談の直前まで、「対話より圧力」の硬直姿勢を続けたのはよく知られている。
だが北朝鮮と各国の対話が軌道に乗り始めると、安倍政権は対話路線に舵を切った。18年9月の国連総会で安倍は「金正恩委員長と直接向き合う用意がある」と、遅まきながら直接対話を呼びかけたのである。
それ以来、「たたき売り」モードのスイッチが入ったかのように、値を下げていく。例えば、2008年に開始した国連人権理事会での「対北朝鮮非難決議案」提出を、この3月に初めて見送った。さらに大きい変化は、19年版の「外交青書」だ。北朝鮮の核・ミサイルを「重大かつ差し迫った脅威」としていた前年版の記述が消えた。拉致問題についても、北朝鮮に圧力をかけ「早期解決を迫っていく」という表現がなくなる。
米朝足踏みでさらに遠のく直接対話
変更の理由について外務省筋は「直接対話に向けた環境づくり」と説明する。しかし、朝鮮中央通信は「対北朝鮮非難決議案」の提出見送り以降も、「(拉致問題を提起する安倍政権は)歴史的な責任と義務から逃れようとしている」(2019年3月16日)などと、名指し批判を続けている。
先の北朝鮮消息筋は、「日本政府は4月、対北独自制裁を2年間延長した。制裁を少しでも緩和するならともかく、何のための(対話)環境づくりか。現段階では(直接対話は)程遠い」と私に話した。ハノイでの第2回米朝首脳会談が物別れに終わり、核・ミサイル問題と朝鮮半島の平和構築が足踏み状態に入った今、日本の出番はさらに遠のいたと言うべきだろう。
「政治生命を賭けた」はずの拉致問題でも「たたき売り」が始まった。安倍は5月6日、日朝首脳会談について、前提条件を付けずに会談の早期実現を目指すと言明、従来方針を大転換した。この方針転換に対しては、さすがの自民党内部からの「説明責任を果たす義務がある」などと不信の声が相次いだ。
そもそも「全拉致被害者の即時帰国」という要求自体が、ハードルが高すぎるのだ。平壌にとっては、2002年の日朝首脳会談で金正日氏が日本人拉致を認め謝罪したことで、拉致問題は「解決済み」なのである。首脳会談への道は遠い。
たとえ会談が実現したとして、もし拉致問題で「成果ゼロ」だったら、安倍はどうするつもりなのだろう。ナショナリズムを煽ったツケは大きい。
「二島返還」へ方針転換
ロシア外交に移る。安倍は今年(2019年)1月22日、モスクワでプーチン・ロシア大統領と25回目の首脳会談に臨んだが、前進のないまま終わった。この会談は特別の意味を持っていた。なぜなら、安倍が18年11月の首脳会談において、日ソ共同宣言を基礎に平和条約締結交渉を進め歯舞・色丹の二島返還に方針転換すると表明したあとの初会談だったからである。
これまでの日本政府の基本方針は、「北方領土」は「ロシアの不法占拠の下に置かれている我が国固有の領土」であり「北方四島早期返還の実現」(内閣府HP)を目指すというものだった。二島返還への方針転換は、まさに「たたき売り」である。
ついでに言えば、19年度版の「外交青書」から「北方四島は日本に帰属する」(18年度版)の記述が消えた。安倍は昨年末以来、国会答弁などで「帰属の問題」や「不法占拠」という表現を使うのを徹底して避けてきた。
これだけ値下げしたのだから、何らかの進展があるはずという期待値はおのずと上がる。だがロシアは、「黙っていても値下げしてくれる」と、安倍の足元を見透かしたに違いない。その後の交渉でロシアが見せた答えは、安倍政権にとっては強硬一色だったからである。
日米基軸が足かせに
領土問題を冷静に見つめれば、国際環境、安全保障、歴史と、どの視点から検証しても、プーチンが領土を引き渡す誘因はない。それが筆者の結論である。
まずは国際環境と安全保障の視点から検証する。