このところ考えている。私たちは、「政治には関わらない方がよい」という感覚へと、無意識のうちに誘導されているのではないか、と。
政治をめぐる「呪いの言葉」
私たちは、政治的な発言をすると面倒なことになると思わされている。政治的なことには関わらない方が無難だと思わされている。自分が何を言っても、何をしても、誰に投票しても、どうせ社会は変わらないと思わされている。
あえて「思わされている」と書いた。「思っている」ではなく。なぜなら、政治をめぐる「呪いの言葉」があふれているからだ。
「呪いの言葉」とは、人の思考の枠組みを縛ってしまう言葉を指す。「親に言われ続けたあの言葉に、自分はずっと苦しめられてきた」――例えばそういう時に、「呪いの言葉」という表現が使われる。若い人にとってはなじみのある表現だ。
私は『呪いの言葉の解きかた』(晶文社、2019年)において、「嫌なら辞めればいい」のような「労働をめぐる呪いの言葉」や、「母親なんだからしっかり」のような「ジェンダーをめぐる呪いの言葉」、そして「デモに行ったら就職できなくなるよ」のような「政治をめぐる呪いの言葉」を取り上げ、そういった「呪いの言葉」の呪縛からどうみずからを解き放つことができるかを漫画やドラマ、事例を手がかりに考えた。
「呪いの言葉」は本当の問題を巧妙に隠し、「それはお前の問題だ」と枠づけて、相手を心理的な葛藤の中に陥れる。その罠にかからず、相手が勝手に設定した土俵にうっかり乗ってしまわずに、「これはあなたの問題だ」と、相手に返していくことが重要だ。
例えば「嫌なら辞めればいい」と言われたら、「辞めるわけにはいかないんです」のように自分の問題としては答えず、「あなたが部長のパワハラをやめさせれば済む話ですよね?」とか、「あなたがもうひとり雇えば済むのでは?」などと、相手が答えなければならない形での切り返し方を考えてみよう。すると、隠されていた本当の問題が可視化されてくる。
実際にそのような切り返しの言葉を口にするのは危険な場合もあるので注意が必要だが、そういう切り返し方を頭の中で考えてみることを繰り返していくと、「呪いの言葉」の目的が相手を黙らせること、孤立させること、葛藤させること、本当の問題から目を逸らさせることにあることが、次第に見えてくる。
そういう頭の切り替えはひとりではなかなか難しいので、できれば誰かと一緒にワークショップ的にやってみるとよい。オンラインでのワークショップを飯田和敏(立命館大学教授)と企画して9名で行ってみた様子がYouTubeに「呪いの言葉の解きかたゲーム」としてあげられているので、参考にしていただきたい。
野党を貶める呪いの言葉
政治をめぐる「呪いの言葉」を、その目的に応じて大きく2つに分けて見直してみよう。1つ目は、「野党を貶める呪いの言葉」だ。
「野党は反対ばかり」「野党はパフォーマンスばかり」「反対するなら対案を出せ」「いつまでモリカケ桜やってんだ?」「野党はだらしない」「野党は18連休」、等々。
これらは一見したところ、「野党はちゃんと仕事しろ」と言っているように聞こえる。けれども、そう聞いてはいけない。そのように捉えてしまうと、相手の土俵にうっかり乗ってしまう。
「野党は反対ばかり」と言うが、そう言う人は、与野党対決となっている審議中の法案について、自分の賛否を示すわけではない。「この法案になぜ反対するのか、おかしいだろう」とも言わない。「野党は反対ばかり」と言うのは、野党に対して、漠然とネガティブなイメージを広げることをねらった言葉だ。
具体的に考えてみよう。例えば野党は、残業代ゼロの長時間労働を促進する危険がある高度プロフェッショナル制度の創設を含む働き方改革関連法案に反対した。官邸の恣意的な人事によって司法がゆがめられる恐れがある検察庁法改正案に反対した。しかし、「野党は反対ばかり」と言う人たちは、そういう一つ一つの与野党対決法案について、「賛成しろ」と言うわけではない。「反対するのはおかしい」とも言わない。
そして、実際には野党が賛成している法案の方が多いにもかかわらず、「野党は反対ばかり」と、事実と異なるイメージを流布させる。結局のところ、「野党は反対ばかり」とは、「野党には存在意義がない」と思わせるための言葉に過ぎない。
だから「野党は反対ばかり」と言われたら、相手の土俵に乗って「賛成している法案の方が多いんですよ」と返すのではなく、「こんな法案に、あなたは賛成なのですか?」と問うてみるといい。「いつまでモリカケ桜やってんだ?」と言われたら、「コロナもやっています」ではなく、「公文書の改竄(かいざん)や隠蔽(いんぺい)を、あなたは問題ないと考えるのですか?」と問うてみるといい。相手の土俵に乗らずに、相手が隠そうとしている問題、見えなくさせている問題を、可視化させることが大切だ。
「反対するなら対案を出せ」という言葉も検討しておこう。野党は、実際には対案を出している場合もある。しかし、その対案は与党が多数派を占める国会では、そもそも審議にかけられない場合が多い。そういう事情を知らずに、あるいは知っていても知らせずに、「反対するなら対案を出せ」と言い募ることは、これもまた、「野党には存在意義がない」と思わせる意図があると理解できる。「反対するなら対案を出せ」と言う人は、実際に野党が出している対案を見て、「この対案はここがダメだ」とか「この対案は良いものだから与党はまじめに検討せよ」などとは言わない。
それに、本来ならば、「変えるな」というのも立派な対案だ。変えるべきでないことは変えない。慎重な検討が尽くされていないものは、性急に変えるべきではない。それだって本当は立派な対案であるのに、「反対するなら対案を出せ」という言い方につられると、そういった見方ができなくなってしまう。