2025年11月7日、高市早苗首相が「台湾有事」と「存立危機事態」に言及した(註:台湾有事における「存立危機事態」の具体例を問われ、「戦艦を使って、武力の行使も伴うものであれば、これはどう考えても存立危機事態になりうるケースだと、私は考えます」と答弁。2025年11月7日、衆議院予算委員会)。「存立危機事態」とは、「台湾有事」にあたり八重山諸島などの住民を避難させる判断基準とされている「武力攻撃予測事態」などをはるかに超え、集団的自衛権のもと、他国に対し武力を行使する事態である。台湾をはさみ、中国との関係を急速に悪化させた高市首相の発言により、「最前線」に押し出された与那国島に住む人びとは何を思うのか。
古くから台湾島との交流を重ねてきた与那国島を、ドキュメンタリーディレクターの斉加尚代さんが訪ね、人びとの不安、日常、平和を求める切実な思いをさまざまに描写する。
与那国島と台湾島のつながり
沖縄県那覇市出身の校長は興奮気味に語りだしました。「規模の大きい学校でもできないことをやったんです。すごいと思う、この子たち!」。「この子たち」とは、日本の最西端に位置する与那国島で一番小さな小学校に通う全校児童、1年男子と2年女子、4年男子と5年女子、わずか4人の子どもたちです。それぞれの逞しい成長ぶりに思わず感動する言葉が口から溢れていました。
人口1665人の与那国島には3つの集落と3つの小学校があります。68世帯、99人が暮らす集落にあるのが比川(ひがわ)小学校。2024年4月に赴任した新里和也校長は児童の少なさに「行事はどうするんだろう?」と当初不安を感じました。ところが、すぐに杞憂とわかったそうです。
台風26号が島を横断した直後の2025年11月15日、この子たち4人が主役の発表会が行われました。伝統芸能の豊年祭の踊りを皮切りに、ポップなダンスや楽器の演奏、一人ずつの学習発表に4人が揃って島太鼓を響かせるクライマックスに至るまで、衣装を6回着替え、8演目をこなし、拍手喝采を浴びたのです。舞台が設営された体育館にはお年寄りをはじめ地域の人たちが大勢集まり、4人の小さなスターに熱い視線を送ったのでした。
準備は6月ごろから始まりました。校長は「自律を促す唯一無二の小規模校の児童支援」という研究テーマを教職員6人と掲げて共有しました。「公民館館長さんはじめ、保護者に加えて7人ほどの地域の方々が準備段階から協力してくれたのは大きかった」と感謝する新里校長。地域の団結力が支える小学校は当日、プレイベントで早朝から手作りしたジューシーおにぎりや、お餅、蒸し菓子が無料で配られ、1年の男の子がスーパーボールすくいの店長になり、高学年はダーツゲームで景品をゲットできるコーナーの運営をして……。すべては子どもたちが考案したものです。「そうだね、考えよう!」を合言葉に、4人が主体的に考え、自ら動けるようサポートした教員と地域の人たち。キャンプファイヤーも入れると2025年の「比小祭」は5時間近く。これほど長時間で盛りだくさんの「学芸会」を私は見たことがありませんでした。
演目のひとつ、台湾・花蓮市の原住民(台湾の先住民は自分たちのことをこう呼びます)に親しまれているダンス、「南島的故郷」には驚かされました。紙とビニールで手作りされたカラフルな衣装をまとい、4人が軽快なステップを踏みます。

比小祭で「南島的故郷」を踊る児童たち(撮影:斉加尚代)
与那国島は111キロ離れた隣の花蓮市と姉妹都市提携を結んでいて、島全体で文化交流を続けています。毎年小学校6年生の修学旅行先は花蓮です。現地の小学校を訪問し、お互いの伝統芸能を教えあうなどしています。恒例の演目を楽しそうに踊る子どもたちと拍手する大人たち。台湾大学を卒業する島民もいれば、島の観光協会には台湾人スタッフもいます。2025年9月にはその観光協会が主催する「台湾フェア」に原住民ブヌン族のシャオファンさん家族がやってきました。ご先祖から歌い継がれる八部合音(パシブトブト)という独特な旋律を声の重なりだけで美しく奏でるファミリー合唱団は、日本語で「平和の琉歌」も歌いあげ、島民の心をわしづかみにしたそうです。
50年にわたる日本の植民地統治時代の台湾には出稼ぎにも行った与那国の人びと。漁船を使った貿易もさかんで経済的にも潤いました。与那国の地域性と文化は、近くに黒潮が流れる豊饒な海と断崖絶壁に囲まれた豊かな自然のもと、島同士の交流を重ねて独自に築かれてきました。
植民地時代を経て戦後へ、台湾近現代史を歩く
私は与那国島へ赴くにあたり、今回初めて台湾島を経由して入りたいと考えました。とはいえ、現在は台湾から与那国へは那覇か石垣の空港を経由してしか行けません。旅の目的は「比小祭を見たい」という単純な動機からで、中国の台湾侵攻を想定した「台湾有事」から安保法制の「存立危機事態」にまで触れた高市総理の国会答弁が問題視される前に計画したものです。しかし関西空港から台北の桃園空港に着いたのはその国会答弁の4日後でした。台北に在住する日本人(日系企業に勤めるビジネスマン)の一人は「台湾人は有事を本気にしていない。北京や上海との間で人もモノも盛んに動く活発な流通を見れば私もそう思います」と語りました。
あらためて痛感したのは台湾の重層的な歴史の奥行きです。故宮博物院に足を運べば、蒋介石が中国大陸から運び込んだ財宝の数々が一堂に会し、5000年以上前に君臨した王朝の青銅器などを目にすることができます。台湾では16の原住民族が政府に認定されていますが、彼らは全体の数パーセント。台湾人のほとんどは大陸がルーツの漢民族で、終戦後に移住してきた「外省人」も含めると9割以上になる圧倒的マジョリティーです。一人ひとりの政治的立場や信条はどうであれ、また中国政府の領土をめぐる主張とはまた別に、台湾と中国は人的にも経済的にも深く結びついているのです。
初代総統として中華民国(台湾政府)を築いた蔣介石。大日本帝国から台湾を解放した政治家を顕彰する大規模な「中正紀念堂」から徒歩10分ほどの場所に、台湾史上最悪の民間人虐殺、1947年2月27日に勃発した事件を伝える「二・二八国家紀念館」(2011年開設)があります。紀念館は、日帝時代に教育会館として設計されたものを再利用しています。

二・二八国家紀念館の外観(撮影:斉加尚代)
日本の降伏で祖国に迎え入れられた台湾社会は、喜びに沸いたのも束の間、大陸からやってきた役人らによる汚職事件が頻発、台湾人(「本省人」=終戦前から台湾に住んでいた漢民族のこと)は政治参加からも排除され、深刻な経済危機に陥りました。闇たばこを取り締まる当局が市民に発砲したのを引き金に民衆の不満が爆発し、反政府デモに発展して抗議行動は台湾全土に広がってゆきました。
民衆が求める政治改革を表向きは約束した行政長官が、裏では軍隊を派遣した蒋介石の命令に従って弾圧・粛清に走ったことを明らかにする公文書や写真が紀念館には展示されています。その犠牲者は数万人とされますが、正確な数はわかっていません。胸に迫ったのは死者たちのプレートの多くに顔写真はなく、白い壁が広がっていることでした。公務員や教員など当時のエリート層の多くが無差別に虐殺されました。日本の帝大出身者も多く殺害されました。

犠牲者たちの名を記したプレート。多くは顔写真がない(撮影:斉加尚代)
この白い壁に続いて、レンガ造りの薪小屋に「施儒珍の壁」が再現され、その悲劇が記されています。施儒珍は、蒋介石を団長とする国民党系青年団のメンバーになり、日本統治下では「反日」を理由に逮捕された人物です。しかし終戦後、国民党政府にやがて反発、指名手配されて、薪小屋に弟が作った見せかけの壁裏のわずか幅60センチの空間に17年間身を隠した挙げ句に死亡しました。
台北市が1997年に設立したもう一つの「台北二二八紀念館」は、日帝時代に開局された台北放送局の建物で、二二八発生時はその状況をラジオ(台湾広播電台)で全土に伝え、決起を呼びかける現場になりました。いずれの施設にも犠牲者として挙げられていた東京美術学校(現在の東京藝術大学)卒業の画家、陳澄波を主人公にした歴史小説『陳澄波を探して 消された台湾画家の謎』(柯宗明著、岩波書店、2024年)には、中台の関係についてこんな言葉が綴られています。
「天下泰平の下では、台湾人と中国人は兄弟、家族みたいなものだ。でも中国と日本の仲が悪い時には、敵、味方の意識が強くなる。(中略)われわれの顔には突然「通敵」(敵の協力者)の二文字が刻まれたのだ」
東京でプロレタリア芸術を学んだ陳澄波は、台湾出身の画家として初めて帝国美術展覧会に入選。1933年に帰郷して台湾美術界を牽引し、戦後は嘉義市の議員に選ばれました。二・二八事件のさなか、民間人の犠牲をなんとか食いとめようと国民党軍との交渉に出かけたものの反逆罪に問われ、風景画を残した故郷の広場で銃殺されました。妻が危険を冒して撮影を頼んだという白黒の遺体写真がつよく目に焼きつきます。