推定180人が日本に入国
北朝鮮から脱出してきた人の日本入国が急増しているのをご存じだろうか? 外務省は正確な数字を発表していないのだが、2008年末で推定180人。同時期までに韓国入りした脱北者数の累計約1万5000人と比べると微々たるものだが、5年前の02年夏には約30人だったので、この6年間で5倍以上に膨らんだことになる。この約180人は、実はすべてが日本と縁故のある人たちである。かつて日本から北朝鮮に帰国した在日朝鮮人とその日本人妻、北朝鮮で生まれた二世、三世、そして少数だが、帰国者と結婚した北朝鮮生まれの人たちである。1959年12月に始まった在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業では、25年間に9万3000人余りが、社会主義の祖国・北朝鮮を選んで永住帰国していった(日本国籍者約7000人を含む)。9万3000人といえば、当時の在日朝鮮人人口の7人に1人にあたる数だ。朝鮮総連(在日朝鮮人総連合会)は北朝鮮を「地上の楽園」と宣伝して帰国事業を大々的に組織し、自民党から共産党までのすべての政党、地方自治体、労働組合が帰国運動を人道問題として支援した。また、日本政府と赤十字社は、生活保護世帯が多く左翼性向の強い在日朝鮮人を厄介払いできるとふみ、渡りに船とばかりに北朝鮮帰国事業に積極的に協力した。
50~60年代の日本社会は、現在と比較にならないほど在日朝鮮人に対する差別が厳しかった。国民健康保険にも国民年金にも加入できないなど、生活者としての諸権利が法制度的に制約されていたし、就職や家を借りることも朝鮮人という理由で拒絶されるケースが少なくなかった。在日朝鮮人の北朝鮮大量帰国は、民族差別と貧困から逃れたいということも大きな動機だったのである。
しかし、帰国した在日朝鮮人は祖国で大変な苦難を味わうことになる。資本主義社会から来た異分子として監視と差別にさらされ、政治犯として捕らえられた人もいた。そして90年代、経済破綻の末に発生した社会混乱と大飢饉(ききん)で200万~300万人ともいわれる人が命を失い、北朝鮮を脱出する難民が続出、その流れの中に多くの帰国者たちも合流した。残念ながら、これが北朝鮮帰国事業の哀しい結末なのである。
日本社会で苦闘する脱北者たち
現在、外務省は、日本縁故者であることがはっきりすれば、「邦人保護」に準ずる扱いをして、日本国籍者、元在日朝鮮人を区別なく公館で保護し、日本への渡航を認めている。北朝鮮から中国や第三国に脱出した後、本人や親族、または難民支援NGOが、日本公館に保護を要請、外務省が身元の確認後、当該国当局と出国を交渉。パスポートに代わる「渡航証」を発給して来日に至るのだ。日本入国後、日本人妻はもちろん、その子供の場合は速やかに日本国籍が認められるケースが多い。元在日朝鮮人とその子供の場合は外国人であるから、新たに外国人登録をしなければならない。だが北朝鮮とは国交がないし、韓国籍はまず韓国政府に住民登録を認められるのが先決なので、当面選択できるのは「無国籍」か、地域呼称としての「朝鮮籍」となる。しかし、「無国籍」では生活面で不都合が多い。アルバイトや就職の面接で、担当者に不審がられて不採用になる事例もある。
電車の切符の買い方、コンビニでの買い物の仕方、銀行口座の作り方もわからず、日本での生活は戸惑うことばかりだ。日本語を学びたい、職を探したい、北朝鮮に残る家族のことなど、切実な悩みもある。しかし、日本政府は入国を認めた後は生活にはまったく関知しない。法律がないからだ。高齢や病弱で働けない人には地方自治体が生活保護をしているが、日本社会への定着と自立の支援は民団(在日本大韓民国民団)や民間のボランティアが行っている。ところが入国する脱北帰国者が増えるペースが速すぎて、支援者の数も予算もまったく追いつかなくなっている。急増の理由は、先に日本入りを果たした人が、家族を北朝鮮から「呼び寄せる」ケースが増えているからだ。脱北帰国者は大阪と東京に集中しているが、ケアする人がまったく足らず、都会の真ん中で孤独に暮らす人が少なくないのが実情だ。
それでも若い世代の脱北帰国者は日本社会への適応も早く、懸命に仕事に勉強に励んでいる人が多い。2008年11月には、ともに脱北帰国者同士という結婚式が大阪であった。新郎は貿易会社で働く23歳、ブティックの店員として働く新婦は21歳。命がけで北朝鮮を脱出して日本に渡り、若くして立派に自立して暮らしている。この新郎は「北朝鮮の人間にも頑張るやつがいるということを、日本の人にも示したいんです」というのが口癖だ。また大学進学を決めた脱北帰国者もいる。05年に日本入りし大阪に住む26歳の女性は、07年に高等学校卒業程度認定試験(旧大学入学資格検定)に働きながら合格。09年春から関西のある大学に進学する。
難民の大量流入はありえない
気になるのは、今後、北朝鮮から難民がどれぐらい日本に向かって来るかである。政治家や評論家の中には「朝鮮半島有事の際には百万の難民が押し寄せる」とか、「難民を偽装した武装工作員が来る」などと無責任な発言をする人がいる。結論から言うと、日本に船に乗って直接渡ってくる北朝鮮難民は、たとえ体制崩壊という緊急事態が発生したとしても、多くても数百人から千人程度に過ぎないというのが筆者の見立てである。海があって簡単には来られないこと、圧倒的多数の人々は、物理的に安全に行けて言葉が通じる同胞の住む韓国、次に地続きの中国を目指すという常識的な理由による。日本に向かう北朝鮮からの難民の大部分は、一度韓国か中国に出た後、冒頭で述べたように日本政府に渡航申請をして、合法的に入国してくることになるだろう。つまり手続きを経て空路で入って来る人が大部分ということになるだろう。筆者はその数を1万人ほどだと予測する。日本海岸に押し寄せるというのは、荒唐無稽(むけい)な空論に過ぎない。
金正日総書記の健康悪化は事実だと思われ、北朝鮮情勢は今後流動化していく可能性が高い。どれぐらいの規模になるか予測は困難だが、難民の流出は避けられないだろう。日本は冷戦の当事者であったし、何より北朝鮮の隣国である。責任ある東アジアの一員として、未曾有(みぞう)の苦難から逃れてくる隣人たちに手を差し伸べる――そのような視点で、脱北難民の受け入れの制度的準備を進めていくべきだろう。
朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)
北朝鮮を支持する在日朝鮮人の団体。1955年5月結成。加盟者数は約10万人弱とされる。
朝鮮籍
日本の朝鮮支配が終わった第二次世界大戦後に、在日朝鮮人の出身地を表して便宜的に「朝鮮籍」としたもので、北朝鮮の国籍ではない。本人の要望でこれを書き換えた「韓国籍」は、韓国の国籍表示。
民団
韓国を支持する在日韓国人の団体。1946年10月結成。約50万人が加盟。