世界に例のない大規模な選挙
「時間がきても投票所が開かない、不在者投票用紙が送られてこない、有権者名簿に名前がない、投票機械は故障が多く数は少ない、投票所の変更通知がない、職員が少なく有権者は長蛇の列…」。この記述は「残念ながら」インドの選挙ではなく、アメリカの選挙制度を分析した研究書の一節だ。ブッシュ政権を生んだ2000年の大統領選挙の大混乱、とりわけフロリダ州の惨状は、私たちにも記憶が新しい。ひるがえってインド。2009年4月から5月にかけて行われたインド独立後第15回目の連邦下院選挙では、有権者は7億1000万人でアメリカの約3.5倍。治安上の危惧(きぐ)から投票は5回に分けて行われたが、それさえなければ、投票を数日、あるいは長くとも1週間で終わらせる能力がインドにはある。全国の投票所数は83万カ所、用いられた電子式投票機は11万台、すべて国営の電機公社製だ。最終的に約4億人の有権者が投票機のボタンを押した。開票は5月16日全国で一斉に開始されたが、開票の数時間後には早くも趨勢(すうせい)が判明、24時間のうちに総選出議席543議席の当選者が確定された。インドでも有権者名簿の不備や投票所の暴力的占拠など、部分的には問題なきにしもあらずだが、冒頭のアメリカはもとより世界のどこにも、ここまでけた外れに大規模な選挙を、短期間にかつ混乱なく実施できる国はない。事実上の一党独裁国家である中国を意識して、「世界最大の民主主義国」とインドが自負するゆえんである。
信頼される選挙管理委員会
インドは、どうやってこのような大規模な選挙実施のノウハウを身につけてきたのだろうか。もちろんこれがかつての植民地宗主国イギリスの置き土産で「ない」ことは明らかだ。なぜなら、植民地時代はせいぜい成人人口の2割ほどしか参加できない制限選挙であったからだ。成人普通選挙はインドが1947年に独立した後、1951年から52年にかけて初めて実施され、これまで連邦下院では15回、州レベルでは合計200回以上の経験を蓄積してきた。この間、選挙権資格を21歳から18歳に引き下げるほか、投票所の増設、選挙活動のルール化、点字投票の導入など選挙運営にも各種の改善が加えられてきた。この世界最大規模の選挙の司令塔は、大統領直属の選挙管理委員会である。委員会は憲法上に地位が規定された独立機関であり、近年では選挙監視にも強い権限をふるうようになってきた。文字を読めない人に配慮して、政党や候補者に識別用のシンボル(象や蓮など)を割り当てるのも委員会の重要な仕事だ。その長にはエリート官僚職であるインド行政職(IAS)出身者が任命される。州選管の長にも同じく現役IAS官僚が任命される。政党に対しても堂々ともの申す選管の存在が、選挙制度の信頼性を支える第一の要因である。
草の根活動が支える公正な有権者名簿
だが、独立中立な選挙行政というだけでは、有権者名簿の作成から投票、開票に至るまで行政が担い、20歳になれば自動的に投票所の入場券が送られてくる日本の仕組みとの違いはわからない。日本の選挙運営がスムーズにいくひとつの理由は住民登録と選挙制度が連結されているからだ。インドには住民登録制度などない。では行政は有権者をどのように把握するのだろうか。また住民は自分が有権者名簿に登録されていることをどうやって確認するのか。男性の3割、女性の5割は字が読めないのである。インドでは選管が地方公務員などを動員して、選挙が行われるつど前回選挙時の有権者名簿を改訂する。その結果は郵便局など地域の公共機関に一定期間公示される。この段階では名簿にはすでに死んだ人や、作為不作為によって紛れ込んだ幽霊有権者が含まれている。これを選管に申し立て訂正させるのは、多くの場合、有権者個人ではなくて候補者や政党である。有権者名簿の監視は、インドの選挙戦で候補者や政党が絶対に手を抜けない作業なのである。
候補者や政党活動家は、有権者名簿を手に支持者の記載の有無を確認し、対立候補が幽霊有権者を名簿に入れていないかをチェックする。選挙運動は、戸別訪問、親類縁者や同じカーストの住民の小集会などきめ細かい。役所から食糧や灯油の配給証を入手する際に口をきいてあげた住民には、かならず投票するよう念を押す。配給や失業対策事業、さらには銀行融資を申請するたびに、担当係官からわいろを強要される弱い庶民にとっては、政党はある意味で「命綱」である。
過去20年あまり、市場経済化のもとで経済成長の恩恵にあずかってきた中産層より上の人々には、政党によるこのような利益誘導的な活動は、古いタイプの政治とみなされて、あまり評判が良くない。しかし、教育もなく所得も低い庶民にとっては、どの政党が自分たちの衣食住を保障してくれるかは、慎重に見極めねばならない選択だ。最近の州レベルの政治では、電気・水道・道路など基本最低限の生活インフラを供給できない政権は、次の選挙で厳しい審判を受けることが多い。生活水準の向上を求める有権者と政党の間のこうした緊張関係が、インドの民主主義を草の根から支えている。
インド民主主義の鍵は政党の「相互監視」
このように、政党による媒介と相互監視がインドの有権者名簿作成の鍵である。そして相互監視を行った以上、政党は選挙結果を尊重せざるをえない。政府与党が力ずくで反対党の監視活動を妨害すれば、この仕組みは容易に壊されてしまうが、幸いにもそうした事例はある時期のジャンム・カシミール州や西ベンガル州あるいはアッサム州などを除けば、極めて例外的であった。有権者名簿だけでなく、実際の投票時にも、替え玉が投票しないように投票会場には候補者の代理人が立ち会う。投票の当日、有権者は投票所から100m以上離れて設置せねばならない候補者や政党の仮設事務所で、有権者名簿の記載を確認して投票会場に向かうのである。候補者や政党のこうした仲介的な役割は、すべて選挙関連法にきちんと書きこまれている。インドの選挙のこのような仕組みは、名誉職的な選管委員は地方議会で選任されるが、実際の事務は行政がおぜん立てしてくれる日本とは明らかに異なる。どちらかと言えば、投票するために有権者登録を必要とし、政党間の監視と競争を前提に運営されているアメリカの選挙制度に近い。だがインドでは行政も選挙運営に効果的に機能している。このように同じ「民主主義国」でも選挙のあり方は大きく違う。民主主義はしょせん与えられるものではなく、人々による監視(ビジランス)によって実現するものだから、インドの選挙制度は民主主義の本来の姿を反映しているということができるのである。
インド行政職(IAS)
Indian Administrative Service。
インド外務職(IFS Indian Foreign Service)と並ぶインドのエリート官僚。中央と州の省庁の幹部ポストを独占する。IASは現在4500人ほど。毎年、採用試験の受験者20万人弱のうちから、トップ100人程度が、IASやIFSに採用される。