オダギリジョーからハルキまで
日本における韓流ほどではないが、実は韓国においても日本文化が着実に浸透し、「日流(イルリュ)」と呼ばれる現象となっている。植民地時代(1910~45年)の記憶もあって、韓国では日本の大衆文化は長年規制されてきたが、それでも以前からひそかに浸透してはいた。とくに民主化後の90年代に入ると、日本のサブカルチャーはマニア層を中心に絶大な人気を誇るようになる。「ロングバケーション」などのトレンディードラマ、X-JAPANや安室奈美恵などのJ-POP、ジブリや押井守などのアニメ作品、そして北野武、岩井俊二、三池崇史、SABU、黒沢清監督などの映画に熱い視線が注がれた。この80~90年代の日本大衆文化の旺盛な摂取は、その後の韓流カルチャーにも大きな影響を与えている。
日本文化が開放された2000年代以降は、俳優ではオダギリジョー、木村拓哉、上野樹里、玉木宏、瑛太などに、映画監督では犬童一心と三木聡に人気が集まっている。
日本の大型書店に韓流、K-POPコーナーがあるように、韓国の書店には「日本小説」、「日本雑誌」コーナーがある。この文学における「日流」を牽引(けんいん)しているのは、村上春樹、江國香織、東野圭吾、奥田英朗、宮部みゆきなどの作家だ。とくに「ハルキ」と親しみを込めて呼ばれる村上春樹の存在は大きい。「1Q84」は09年の年間総合ベストセラー1位になった。韓国の大学生の必読書といえば、民主化運動が高揚した1980年代後半には朝鮮半島分断の悲劇を描いた大河小説「太白山脈」(趙廷來〈チョ・ジョンレ〉著。日本語訳は集英社刊)だったが、民主化後は村上春樹の「ノルウェイの森」(韓国語タイトルは「喪失の時代」)である。「ハルキ」は韓国人の知的ファッションとなったのである。日本文学ブームの起爆剤という意味で、村上春樹は日流における「ヨン様」のような存在だといえる。
ではなぜ、韓国の若者たちは日本文化に惹かれるのだろうか。「日流」から今の韓国の若者の空気を読みとることができる。
若い女性たちのクールな「文化革命」
日本文化の魅力の第一は、先進性、クールさだ。韓国人は「反日一辺倒」ではなく、長年、日本を先進国モデルとして認識してきた。「日本製」に対する信頼は絶対的で、近年ではエコや「well-being」への関心が、環境に優しいハイブリッドカーや体に優しい日本食に対する評価にもつながっている。村上春樹人気には、ジャズ、クラシックなど欧米文化に対する造詣(ぞうけい)の深さも一役買っている。これらの「ハイカルチャー」が、民主化とグローバル化とともに「大衆化」したことで、それらをアジアでいち早く大衆化した日本の小説や文化に惹かれるのである。第二は、主に若い女性たちによる自由を求める「文化革命」という側面である。韓国は建前としての儒教倫理が根強いだけに、若い女性にとっては窮屈さを感じる社会でもあった。つい最近まで、未婚の女性のことを「処女(チョニョ)」と呼び、女性がたばこを吸っているだけで、見知らぬ中高年男性にしかられることもあった。親や世間に対する「表」の顔と本当の自分の姿との間のギャップが、今の韓国ほど大きい社会もないだろう。
そのような社会に生きる若い女性にとって、江國香織や山田詠美の小説は一種の解放区でもある。小説の中の主人公は、自由で開放的で都会的で、不安定ながらも自分の感情に素直に生きている。「感性恋愛小説」と称されるこれらの小説を通じて、韓国の女性は主人公の「クールな」鏡に自分の姿を投影しながら「もう一人の自分」を想像し楽しんでいるのだ。
第三に、タブーに挑戦し真実を求める若者の元気な感性がある。オダギリジョー人気を不動のものにした、犬童一心監督の映画「メゾン・ド・ヒミコ」。韓国ではタブーだったゲイの物語をせつなくも美しく、そして押しつけがましくなくクールに描いた点が高く支持された。その後は韓国の映画やドラマでもゲイが普通に登場するようになったが、この映画とオダギリジョーの役割が大きいといえよう。
韓国の若者たちはネットやSNSを通じて、自己主張を強めている。彼らは国家権力や超大国アメリカに対しても「いいものはいい」、「おかしいことはおかしい」とはっきり表現する。これまで大人や男社会が規制し過小評価していた日本文化に対しても、「意外といいじゃん」、「日本小説を読んで何が悪い?」という素朴な反応をもつに至ったのである。これは日本における韓流とも通じるものであるが、人々が偏見と固定観念から脱却し、真実・正義を求める表現であるともいえる。すなわち、文化の選択権は、国家や大手メディアや知的権力ではなく自分にある、という「文化主権」の主張でもある。
蒼井優の「ほくろ」が魅力
さらにいえば「ナチュラル志向」、すなわち「清純美」と「自然美」に対する親近感がある。その代名詞が蒼井優だ。彼女のファッションや髪形が流行となるなど、単なる女優を超えて文化的アイコンとなった。ある女性は自身のブログで蒼井優について次のようにつづっている。「蒼井優は同じ女性から見ても、本当に魅力的ですね…目の横のほくろはセクシーで堂々としたイメージを、目の下のほくろは可憐で清純なイメージを、鼻の横のほくろは純朴な田舎の少女のようなイメージを…純粋さがにじみ出ている彼女…」
ここでのポイントは同性が惹かれる等身大の魅力にある。韓国の女優やアイドルの多くは、スレンダー・ボディーと美脚と高い鼻など、西洋的で大人の女性を売りにしている。だが、これらの女性像は多くの一般女性にとっての等身大の自分とはかけ離れているし、すべての男性の好みであるともいえない。みんなが少女時代やチョン・ジヒョン、キム・テヒになれるわけではない現実があるなかで、それを目指すことは正直「疲れる」のだ。次に「ほくろ」がポイントだ。二重まぶた手術など「整形」のうちにも入らない韓国では、人気女優がほくろをそのままにしているというのは画期的なことなのだ。このような「ナチュラル」な魅力に反応しているのである。
韓国の若者は、日流のなかにクール、率直、ナチュラル、時に「ユルユル」といった魅力を見いだして惹きつけられているといえるだろう。
韓国の日流の背景には、日本における韓流の影響もある。日本で韓国文化が受け入れられたからこそ、韓国でも日本文化に対するバリアーが低くなった。これが文化の相互作用である。国家・天下を論じる「大きな物語」や言説にとらわれてきた韓国が、個人の率直で陰密でささいな物語を欲するようになった。一方、今の日本では共同体や絆といった価値への再評価に現れているように、「大きな物語」に関心が集まりつつある。大きな物語と私的な物語、二つの社会と文化が交錯するところに、日韓にとどまらない、東アジアの新たな地平が見えてくるのかもしれない。