またそもそも、自衛戦争の大義名分自体を、改めて再検討しても良いのではないか。ここで問いたいのは、国連憲章の文言云々の法的基礎ではなく、より根源的な倫理的基礎である。例えば、他国から自国を守るための自衛戦争は、いったい国の何を守っているのだろうか。ナチス・ドイツの政治的性質は別途考慮すべきだが、独ソ戦でソ連側兵士が1000万人以上とも言われる甚大な犠牲(民間人を加えるとその数字はさらに膨れ上がる)を払って防衛したものが、飢饉と粛清の悪政に彩られたスターリン体制であったことは、歴史の皮肉と言うしかない。
◆どのように戦うことが許されるのか
さて、以上のように開戦の正当性を検討し尽くしたとしても、話はまだ終わらない。なぜなら次には、その戦争をどのように戦うかという別個の判断が残っているからである。例えば現代の国際社会では、民間人を無差別に殺傷すること、毒ガスなどの生物・化学兵器を使用すること、捕虜を虐待することなどは、法的にも倫理的にも許されていない。戦争の戦い方の是非にまつわるこうした倫理的判断は、「交戦法規」あるいは「戦時中の正義」(jus in bello)と呼ばれている。
戦争は「開戦法規」と「交戦法規」の二重の基準で評価される。たとえ祖国防衛という大義名分を掲げた戦争の延長であっても、戦場では許される行為と許されない行為がある。要するに、私たちは「正しい」戦争を「正しく」戦わなければならないのだ。この評価基準の二重性は複雑な問題を生み出す。私たちは、正しい戦争の勝利の可能性を低めることになったとしても、なお正しい戦い方に固執すべきなのだろうか。
ここで再び、リアリズム的思考が限定的に首をもたげてくる。すなわち、正当な目的のためなら必要かつ有効ないかなる手段をとっても構わないとするマキアヴェリ主義である。しかし、リアリストは本当にそう考えているのだろうか――民間人の殺傷も、生物・化学兵器の使用も、核兵器の使用さえも? 仮にそうでないとすれば、やはりどこかで手段の正当性の一線を引く必要があり、その倫理的判断からは免れないように思われる。
ちなみに、戦争遂行の形態をめぐる「交戦法規」の議論は、技術革新による変容を受けやすい。例えば冷戦期には、民間人の生命と生活を盾にとる核抑止戦略の倫理的是非が盛んに論じられたし、近年では無人戦闘機(ドローン)の技術革新に伴い、民間人被害や責任の所在をめぐって、新たな倫理的問題が生じている。また、弱者の戦い方としてのテロリズムについても、同時多発テロ事件および「テロとの戦い」に触発されて研究が蓄積されている。
◆戦争倫理学とこれからの日本
最後に、日本で私たちが戦争の倫理学的検討を進めることの意義について、若干言及しておきたい。戦後の日本は、先の大戦で二度の原爆投下や東京大空襲といった巨大な惨禍を経験したことから、戦争に対する全般的な忌避感という、草の根レベルの強い国民感情を保ち続けてきた。もちろんそのことが、平和主義を柱のひとつとする戦後憲法の維持に役立ってきたということも事実だろう。
しかし現実を振り返れば、戦後の日本は、米ソ対立を基本軸とした国際情勢のなかで、アメリカと安全保障同盟を結び、自衛隊の設立によって事実上の再軍備に着手してきた。自衛隊の活動もまた、専守防衛の範囲を超えて、機雷除去や停戦監視から、より踏み込んだ海外派遣へと進みつつある。日本は今や、肯定的であれ批判的であれ、もはや武力行使に対する何らかの価値判断を避けては通れないところにいる。
たとえ学問的にであれ、あれこれの理由に照らして、個々の戦争が「許される」とか「許されない」とか論じ始めると、ただちに「戦争それ自体を肯定するのか!」との反発の声が上がるかもしれない。しかしながら、論点を回避したままで論争に強くなることはできない。国民全員が絶対的非戦の教えに帰依するのでない限り、戦争の遂行と同じく、戦争の廃絶もまた、天啓として授かるものではなく、不断の意志的選択の継続によって実現するものであるはずだ。
集団的自衛権や集団安全保障の問題と関連して、現在の私たちの眼前には、武力行使の是非をめぐる大きな選択の扉が開かれようとしている。だとすれば、賛成派と反対派の双方が、その是非を客観的・理性的に論じるためにも、そして自らの主張に説得力をもたせるためにも、信頼ある選択の指針が必要なのではないか。戦争の行為とその帰結を深刻に受け止めるからこそ、まずは戦争倫理学の知見に耳を傾けてみてはどうだろうか。