台湾統一を視野に入れて構想された「一国二制度」
中国は現在、香港とマカオの二つの特別行政区に対しては、「一国二制度」の枠組みのもとで中国大陸とは異なる社会体制の継続を認めています。すなわち、香港やマカオも同じ「中国」という国家に属するが(=一国)、植民地返還から当初の50年間は社会主義制度を導入せず、従来の資本主義制度や生活様式を保持した状態での「高度の自治」を認める(=二制度)という政策であることから、「一国二制度」と呼ばれているのです。これはもともと、トウ小平が中国の実権を握った1970年代の末から、主に台湾問題の解決を視野に入れて構想されたものです。79年に「台湾同胞に告げる書」、81年に台湾統一に向けた9項目提案を発表するなど、トウ小平の指導下で中国共産党は従来の強硬な対台湾政策を転換する姿勢を打ち出していました。そんな流れのなかで、トウは84年6月に「一国二制度」という単語に言及、将来的な統一に向けての具体的な方向性を明らかにします。現地社会の現状を維持したまま、中国との国家統合を実現していく大胆なアイデアというわけです。
この構想は「台湾統一」に先立って、まず香港にも適用されることとなります。同年、トウ小平とサッチャー(イギリス首相、当時)の間で協議がおこなわれ、97年に香港の全地域が中国に返還されることが決定。結果、現在に至る香港のありかたが定まっていったのです。
ところで、この一国二制度構想のルーツは中国の近代史のなかにあると考えられます。すなわち、日中戦争(抗日戦争)中に国民党と共産党が統一戦線を結成(第二次国共合作 1937~45)した際、当時の蒋介石政権は共産党の支配地に対して「辺区」という国民党の統治が及ばない特別行政地域を組織することを認めました。これは資本主義体制の中華民国のなかに、異なる体制(社会主義)の地域を認めるということですから、まさに「一国二制度」の源流と呼ぶべきもの。トウ小平はこうした過去の歴史を踏まえた上で、台湾や香港を回収する方策としての「一国二制度」のアイデアをつくりあげたのではないかと考えられます。
「植民地」香港の悲哀
当初、台湾への適用を視野に入れていた「一国二制度」構想のなかでは、独自の選挙・官吏登用を含む政治体制、経済制度のみならず軍隊保有(中華民国軍の実質的な継続)の容認など、極めて高いレベルの自治が構想されていました。しかしながら、97年以降の香港で実際に施行された「一国二制度」体制は、中国人民解放軍や中国公安部の部隊による香港駐留や、行政長官をはじめとした香港特区政府の人事への中国の介入が事実上容認されているなど、当初の台湾モデルと比較すると自治の度合いがかなり見劣りします。政治的には中国の支配が貫徹する、ただし経済においては自由な活動を保証する――。事実上、この「制限された自治」とも呼ぶべき状態が、香港における一国二制度の実態となっています。
もともと、香港はあくまでもイギリスの植民地であり、独立した政治・経済・行政体が存在しない地域でした。このことが、(まがりなりにも「国家」である)台湾を対象に想定されたモデルとは異なった形での統治形式を生んだと考えていいでしょう。
なぜ香港民主化を約束したのか
一方、97年の返還時に定められた香港特別行政区基本法では、将来的に現地の行政長官を直接選挙を通じて選出することが明記されていました。しかし、中国は返還当時の時点では、香港の民主化についてのプランをそれほど明確に想定していなかったと考えられます。将来的な民主化の約束は、返還を控えた香港の住民感情に対する慰撫(いぶ)という側面に加え、やがて北京が香港をコントロールできるはずだと考える自信の表れであったと言えるでしょう。
今後、中国本土において経済発展が進み、香港社会と中国社会との差異が減少していくことで両者はきっと融和していく。仮に多少の「自治」や「民主主義」を許しても、名実ともに「中国の一部」になっていく香港は中国についてくる――。そんな楽観的な見方が、この特区基本法の表現を生んだと考えられます。
結果、北京の全国人民代表大会(国会に相当)は2014年8月に、この基本法に基づいて次回の香港行政長官選挙(17年)における直接普通選挙の採用を決定しました。これは「直接普通選挙」とはいえ、親中国政府色の強い選挙委員会の推薦を得た人だけが候補者になれるという、事実上の候補者制限を課した選挙です。
中国の側の論理で言えば、本国では実施していない民主的な選挙制度を、香港に対してはひとまず約束通りに認めることにした。これは譲歩である、という認識だったのでしょう。譲歩をした以上、共産党体制と折り合いが悪い人物について事実上の排除がなされるチェックシステムを設定するぐらいは当然だという姿勢です。
習近平政権の共産党体制の堅持に対する固執と、香港が中国本土の民主化の基地となることへの警戒感が、こうした形での選挙制度の設定につながったと考えられます。
不満を爆発させた香港市民
中国が香港に対して、制限付きの「直接普通選挙」の実施を決定したことからは、二つの見解が導き出されます。ひとつは、たとえ立候補者が絞られた不十分な形態の選挙であるにせよ、一人一票の直接普通選挙を通じて代表者を選出できる制度が実現したことは、香港の民主化にとってやはり一歩前進であったとする肯定的な見方です。
もうひとつは、共産党の言いなりの行政長官しか選出されないシステムでは意味がない、従来の間接制限選挙を通じた行政長官の選出方法と実質的な違いはないではないかという批判的な見方です。こちらについては、今回の選挙制度の採用が、香港の「制限された自治」の固定化を招くという懸念も含まれています。不十分ながらも普通選挙が実施されることを「一歩前進」であると評価したところで、その未来に香港の政治環境がもっと自由化・民主化するプロセスが存在していないならば、「一歩前進」を積極的に評価することは難しいというわけです。
加えて、香港を訪れる中国人観光客の急増とマナー問題などを理由とした香港人との軋轢(あつれき)の拡大、中国による香港のメディアに対する事実上の言論統制強化といった諸々の矛盾も、香港の市民感情の火に油を注いでいました。こうした抵抗感情が結実したのが、14年9月末から12月にかけて、香港の民主化と自治をさけぶ若者を中心としたデモ隊が市内各地を長期間占拠した雨傘革命だったのです。
中国からの離反が進む台湾
雨傘革命は、中国の香港に対する「制限された自治」、すなわち現状の一国二制度がはらむ矛盾を表面化させた事件でした。結果、中国の台湾に対する政策にも極めて大きな影響が出たと考えられます。もともと、中台関係は、台湾における08年の馬英九・国民党政権の成立以来、経済関係はもちろん、政治家やそのブレーンたちの人的交流も含めて、あらゆる面で接近が進んでいました。中国から見れば、台湾の「取り込み」は着々と進んでいたように見えていたわけです。
ただし、台湾では大陸依存が進む一方で、「台湾人」としてのアイデンティティーが着実に成長していました。これがどういう形で政治的なインパクトになるのかが、長らく注目されたイシューとなっていたのです。13年6月に馬英九政権は中国との間で突如「両岸(台湾、中国)サービス貿易協定」に調印し、十分な審議をすることもなく14年3月に立法院で協定の審議を打ち切り、一方的に強行採決しました。直ちにこの協定に反対する学生運動が起こり、立法院を占拠し立てこもった事件がヒマワリ学生運動と呼ばれました。この運動が世論の支持を背景に政権側の譲歩を引き出し、さらに同年12月の台湾統一地方選での与党・国民党の歴史的惨敗、野党・民主進歩党が大勝したことは、台湾住民の大陸に対するひとつの答えだったと見ていいでしょう。
香港の雨傘革命に対して、中国は強硬策を採ろうとしませんでした。これは同年11月にAPEC(アジア太平洋経済協力会議)の開催を控えていたことも一因ですが、それ以上に台湾への影響の懸念も大きかったはずです。