◆キューバ革命と独立の代償
キューバは1902年に米西戦争の結果、スペインから独立した。その独立はキューバ自身の30年にわたる独立戦争の最終期に、アメリカが介入してくることで実現したものである。アメリカの占領下、グアンタナモ海軍基地の永久租借、関税不平等条約など、アメリカからの要求を受け入れることが独立の条件だった。そのためキューバ国内では、02年の独立は「屈辱の独立」「独立ではなくアメリカの支配下に入った」とされている。しかし、もう一つの側面として、キューバはアメリカと密接な関係を持つことで、経済的には繁栄した。アメリカ企業の対キューバ投資は独立後最初の10年で3倍に増加し、電気・水道・鉄道・電信電話など、インフラ整備で中南米地域の多くの国々に先行したのは、アメリカとの経済関係のおかげである。
そうしたなか、59年にキューバ革命が起こった。この革命で、アメリカの支配下にあって独立できなかったキューバが初めて独立した、と考えられ、民族主義や独立国家としての自立を守ったことは、キューバ革命に正統性を与える根拠の一つとなっている。革命の指導者フィデル・カストロは、革命成功後3カ月後には最初の外遊先にアメリカを選び、アイゼンハワー大統領に中南米地域の開発を共同で行おうと呼びかけている。しかしキューバ革命政権の働きかけはアメリカ政府に受け入れられなかった。
さらに革命直後に発表された農地改革は、キューバに大農園を所有していたアメリカ企業の権益と対立し、アメリカとキューバの対立は深まっていく。キューバ国内の石油精製施設はすべてアメリカの石油会社の所有であったが、アメリカ政府はこれら企業にキューバでの石油精製を禁止、石油製品を入手できなくなったキューバは、ソ連へ接近していく。アメリカは61年に外交関係を断絶し、同年の亡命キューバ人によるピッグズ湾(キューバ)侵攻を支援、62年には全面的禁輸措置(経済制裁)を実施し、締め付けを強めた。わずか140キロしか離れていない超大国からの武力侵攻を恐れたキューバは、ソ連の軍事ブロックへ入ることを決断した。経済面でのアメリカの封じ込め政策と同国の軍事的脅威がキューバをソ連陣営へ追いやったのである。
62年のキューバ危機は、アメリカの武力侵攻を抑止するため、カストロがソ連に核ミサイル配備を要請したことに始まる。偵察衛星によりアメリカはキューバにミサイル発射台が建設されていることを察知し、海上封鎖を行った。当時アメリカ・ソ連間には直接の電話線がなく、首脳が直接対話する手段がないまま情勢は緊迫度を強めていった。事態の深刻さに気づいたフルシチョフがモスクワからのラジオ放送で、アメリカがトルコのNATO基地に配備したジュピター・ミサイルを撤去することを条件に、キューバのミサイルを撤去すると呼びかけ、アメリカがこれを受け入れて危機は回避された。この事件はアメリカとソ連の対立がキューバを舞台に行われたものであり、キューバ政府には意見を言う機会は一切なかった。カストロは自国の安全保障にかかわる事柄が、自分に一言の相談もなく決められたことに激怒したと伝えられる。その後数年間、キューバはソ連と距離を置き、独自に重化学工業化路線や砂糖1000万トン生産運動を実施するがどれも失敗し、69~70年になってようやくソ連型の経済体制の建設を始めた。
◆ソ連崩壊と史上最悪の危機
60年代から80年代、キューバはソ連陣営の一員として、経済的には経済相互援助会議(コメコン)の協定に基づく国際分業体制に組み込まれ、砂糖をソ連・東欧諸国へ輸出して、消費物資その他国内で不足する物資を輸入した。ソ連はアメリカに近いキューバの地政学的価値を高く評価し、第三世界向け援助の半分をキューバ一国に供与した。キューバは寛大なソ連の援助を、国内的には社会開発に向けた。無料の教育や医療を国民全員に例外なく保障し、完全雇用の原則を貫徹、希望する国民にはほぼ必ず政府が雇用を用意した。当時の労働者の9割が国家に雇用される公務員であり、その賃金格差は5倍以内、カストロと掃除員の給料の差も5倍以内である。つまり社会開発と平等というキューバ革命のもう一つの柱を、キューバ政府は実行した。
国際的には、カストロはソ連の援助を世界中の民族解放運動を支援することに使った。中南米やアフリカの左翼運動の多くに、キューバ兵やキューバの軍事顧問、兵器が送られた。これはアメリカから「革命輸出」と警戒され、82年に国務省の国際テロ支援国家に指定される要因となった。
91年のソ連崩壊によって、キューバ革命は史上最悪の危機に見舞われる。経済的にはソ連からの援助が停止し、また貿易全体の85%を占めていたソ連・東欧との貿易が突然途絶えた。食料をはじめとした消費物資のほとんどすべてを輸入に頼るキューバは、革命後最悪の経済危機に陥った。89~93年の4年間でGDPは35%下落した。また社会主義陣営の消滅によって、マルクス主義イデオロギーは急速に力を失った。
94年8月には、59年から現在に至るまでの革命史上唯一の暴動がハバナ港の近くで起きた。この中で体制が倒れなかったのは、前述した社会開発と平等主義の成果を国民が評価したこと、そしてフィデル・カストロの卓越した指導力のおかげでもある。94年の暴動の際、地域の大衆組織や共産党の迅速反応隊などのコントロールがすぐに機能したこともあるが、現場にカストロが急行すると、それまで石を投げていた暴徒たちが一斉に「フィデル! フィデル!」と叫んで彼を迎え、たちまち収束したとも伝えられる。
◆なぜアメリカと国交を正常化するのか
経済危機への対応としては、政府は93~96年と、2009年から現在まで、徐々に経済改革を実施し、自営業の認可、外国投資の促進、ドル流通のコントロール、自由市場の再開、国営企業体の協同組合への再編などを進めているが、大きな成果は上がっていない。革命の成果である無料の医療や教育も、ソ連からの経済援助が途絶えたことで、財政的な基盤がなくなり、とくに医薬品や医療材料、教科書といった物質的な面で不足が目立つようになった。公務員の賃金は実質的に目減りし、生活必需品の多くは外貨でしか手に入らなくなった。
またキューバ経済を下支えしているのが、ベネズエラとの石油と医療サービスのバーター貿易である。01年に当時のベネズエラ大統領ウーゴ・チャベスとフィデル・カストロ国家評議会議長との間で合意された経済協力協定に基づく。産油国ベネズエラはキューバに対し、国際価格を下回る優遇価格で、19年という長期クレジットで原油を供給し、キューバはベネズエラの貧困地区にキューバ人医師を派遣する。この協定は、13年3月にチャベス大統領が病死したために、先行きが不透明になった。14年9月からは、キューバ向け原油量を半分に減らし、キューバからの医療サービス供給も36%減少した。
14年12月のアメリカとキューバの国交正常化交渉開始発表は、これらの背景で行われたのである。キューバにとっては、以下の二つの意図が考えられる。(1)革命の柱である民族自決を守るため、とくにアメリカからの軍事介入の可能性を減らしたい。革命成功後、アメリカはピッグズ湾事件に代表されるように、革命体制打倒のために武力行使を行った過去がある。とくに1926年生まれのフィデル・カストロと、彼より5歳若い弟でフィデルの病気療養で政権を委譲されて後継議長となったラウル・カストロが死去した場合に、その機に乗じてアメリカが介入してくることを予防したい。(2)ベネズエラとの経済関係が今後低下する可能性が高いため、経済立て直しのためにアメリカとの接近を決断した。短期的には観光部門の収入増が見込めることも大きな要因となる。
◆キューバ人が憧れるアメリカ文化
アメリカの世論調査会社が、キューバ政府の許可を得ずに、つまり政府の監視なしに行った2015年3月の世論調査によれば、キューバ国民の97%がアメリカとの関係改善を支持している。キューバ国民のアメリカへの感情は、愛憎相半ばするものである。キューバ国民は、歴史的にはキューバの独立運動の成果を横取りするなど、アメリカの介入を好ましく思っていなかったであろうし、革命前にキューバを訪れるアメリカ人の中には、マフィアや兵士など、キューバ社会で厄介ごとを起こすような人物も含まれていた。