日本は08年からの国連スーダンミッション(UNMIS)に引き続き、12年からは南スーダン共和国ミッション(UNMISS)に対応。16年4月時点で、司令部要員及び施設部隊として約350人の自衛隊員を南スーダンにPKO派遣している。
南スーダン分離独立への経緯
南部の分離独立以前(2011年以前)の「スーダン共和国」の領域のもととなった地域概念は、19世紀末の隣国エジプト、そして次にイギリスによる植民地支配に端を発する。当時の領域がそのまま同国独立時の国境となり、地理的文化的に中東と連続したアラブ・イスラム世界に属する北部と、植民地時代に宣教師が多く入ったことでキリスト教の影響も強いブラック・アフリカ世界である南部とが同じ国家の枠組みに入れられてしまうこととなった。だが、この不自然な国家領域は当初から矛盾をはらみ、はやくもスーダン共和国の独立前年(1955年)から南部スーダンの自治・独立を求める武装蜂起が発生した(第一次内戦)。人口が多く経済的に優勢でもある北部の中央政府(首都、ハルツーム)が、イスラム文化を南部に押し付ける姿勢を示したことが、南部側の感情を刺激したのだ。
こちらの第一次内戦は、72年に中央政府側と南部側でアディスアベバ合意が結ばれてひとまず終結したが、南北境界地域における油田の発見と、80年代に中央政府が南部地域へのシャリーア(イスラムの律法)の強制政策を推し進めて強引な国民統合を図ったことから和平は再び破綻。83年にジョン・ガランが率いるスーダン人民解放軍(SPLA)が蜂起し、第二次内戦に突入する。こちらは2005年に南北包括和平合意(CPA)が成立するまで続いた。こちらのCPAも、その成立直前にジョン・ガランがヘリの墜落により事故死するという未だ謎に包まれた事件が起き、成立が危ぶまれるなかでかろうじてこぎつけられた合意だった。
11年に南部地域を対象に住民投票が実施され、同年7月に南部がSPLAを政権の母体とした「南スーダン共和国」として独立することになる。だが、この新生国家においてもほどなく、さらなる内戦が発生することとなった。
内戦の主要原因はエスニック集団間の利権闘争か
ブラック・アフリカ系住民の多い南スーダン地域だが、その住民たちはディンカ人・ヌエル人・シルク人など、言語や文化的伝統にもとづいて様々なエスニック集団(「部族」と称する場合もある)に分かれている。過去、SPLAが南スーダン地域の自治・独立闘争をおこなっていた時期は、文化圏が大きく異なる強大な「北」と対峙するなかで、南部内部のエスニック集団間の反目や対立は顕在化してこなかったが、皮肉にも独立を達成したことで新たな争いが生まれたのである。南スーダン内戦は13年12月、ディンカ系のキール大統領と、同年に解任されていたヌエル系のマシャール前副大統領が、それぞれ軍を率いて衝突したことで発生した。大統領派と副大統領派による、石油利権などの資源の配分問題と、政府内部でのポスト争いが、それぞれが属するエスニック集団間の武力対立にエスカレートした形だ。少年兵の動員や戦時性暴力の多発など、内戦下での社会混乱は非常に深刻な状況にある。
もとより、アフリカ各国の国境線は現地の住民の文化的まとまりやアフリカ人同士の力関係を反映したものではなく、ヨーロッパ列強国の力関係によって生まれた植民地支配領域をもとにして引かれたものであり、アフリカ連合(AU。旧「アフリカ統一機構」)もその国境線を追認する方針を取ってきた。ゆえに、それぞれのエスニック集団は国境をまたいで分布しており、近隣の複数国家にまたがって政治的・経済的に密接な利益共同体が形成されているケースも少なくない。
南スーダン内戦においても、ディンカ系かヌエル系かを問わず、それぞれ南スーダン国内以外にウガンダやケニアやエチオピアなど近隣諸国の内部にも各勢力を支持・支援するグループが存在する。一般に、内戦を通じて資源などの利権を握り軍閥化した地域集団は、それを手放さないためにあえて和平を望まないケースも多い。南スーダンにおいても同様の構図が発生していると考えられる。
南スーダン内戦の図式は、他の大国(欧米やロシア・中国など)の扇動を受けた「代理戦争」型ではなく、国境を越えて広がるエスニック集団同士の政治・経済面での利権争いの面が強い。内発的な要因にもとづく紛争ゆえに、その対立構造は外部から読み解くことが極めて困難で、解決をいっそう容易ならざるものとしている。また南スーダンを最も早くから承認したイスラエルのような国が武器輸出や軍事協力で紛争を激化させている副次的要因も考慮する必要があるだろう。
和平合意が成立しない理由
南スーダン内戦の発生以降、東アフリカ8カ国からなる地域経済共同体・政府間開発機構(IGAD)の仲介による和平協議が試みられ、15年8月には一応和平合意が成立したが戦闘はやまなかった。16年3月には国連安保理が内戦勢力双方の停戦協定実施を呼びかける声明を出していたが、16年4月末反政府勢力のマシャール前副大統領が復帰し新選挙に向けての権力分与型の移行政権が発足した。しかし持続的な和平が実現したとは言い切れない。アフリカの内戦においては、和平合意が成立することと、本当に内戦が停止されて平和が来ることがイコールで結べないケースが多い。なぜなら、包括的和平合意はそれがひとまず成立することを優先して策定されるがゆえに、具体的な部分をあえて細かく決めないものとなりがちだからである。紛争勢力の代表者同士が、ひとまず合意をおこなったところで、それに満足しないグループが常に存在するのが普通だ。
しかし、細部にいたるまで内戦の対立構造を解きほぐした、具体性のある和平合意を策定することもやはり容易ではない。02年にシエラレオネ内戦が終結したときのように、双方の紛争当事者から一般国民まであらゆる人々の間で内戦への疲弊意識や忌避感情が高まれば、玉虫色の和平合意であっても比較的有効に機能する。しかし、南スーダンにおいては、利権とポストを争うキール大統領陣営と復帰したマシャール副大統領陣営ともにそれぞれの指揮系統を維持した軍隊を保持しており、内戦継続への動機がなおも存在している。したがって持続的解決への道はまだ遠いのが現状だ。
南スーダン和平の鍵を握る近隣諸国
スーダン内戦の終結から南スーダンの独立にいたる過程で、国連主導の和平プログラムが果たしてきた役割は小さくなかった。だが、過去の欧米帝国主義列強による植民地支配への抵抗意識が根強いブラック・アフリカ地域において、ともすれば「外圧」と受け止められかねない国連による問題解決には限界があるのも事実である。隣国のコンゴ民主共和国においては、1960年の独立以来ほぼ国連主導の国内安定化策がとられているが、国連の平和維持部隊スタッフへの襲撃すらも発生している。内戦を通じて軍閥化した地元勢力や中央政府は時として和平の推進を目的に外部からやってきた国連を、自分たちの利益を侵害する存在として敵視する動きもあるためである。
今後の南スーダンにおいても、2013年来数回にわたり同国内に展開するUNMISSキャンプは武装集団によって襲撃され、保護されている避難民やPKO要員に死傷者を出してきている。最近では16年2月に同国北東部のマラカルのPKOキャンプ内に南スーダン政府軍が侵入した。現地の様々なエスニック集団の利害が錯綜(さくそう)している南スーダン内戦においては、外部の仲介者による停戦の呼びかけの効果はともすると限定的だ。
今回の内戦の解決に対して期待される仲介者は、欧米諸国や国連よりも、ケニアやウガンダなど近隣諸国の関係者となるだろう。紛争当事者のいずれにも顔がきく人物の「メンツを立てる」ために双方が矛をおさめるという解決策は、顔の見えない外部からの仲介による解決よりも実現する余地が大きいと思われる。例えば、ウガンダのムセベニ大統領は生前のジョン・ガラン(SPLAの指導者)との交友関係で知られる。