連邦議会の議席総数は709。CDU・CSUの議席数は246なので、単独では過半数に満たない。SPDは下野する方針を打ち出したので、メルケル首相は他党と連立しなくては、過半数を占められない。CDU・CSUは、政治理念と政策の違いから、AfD、左翼党とは絶対に連立しない方針なので、残りはFDPと緑の党しかない。
本稿を執筆中の17年10月の時点では、メルケル首相が4期目の首相を務める公算が高いとされているが、新しい連立政権の姿は確定していない。ただしメルケル首相にとって、4期目の政権と議会運営がこれまで以上に困難になることだけは、確実だ。
AfDは旧東ドイツだけではなく、西側でも躍進
特に旧東ドイツでは、AfDが圧倒的な強さを示した。ザクセン州では、初めてAfDの得票率(27.0%)がCDU(26.9%)を追い抜いて、首位に立った。同州東部のゼクシッシェ・シュヴァイツという選挙区では、AfD幹部が37.4%もの高得票率を確保した。旧東ドイツ全体の有権者の22.5%がAfDに票を投じ、同党は旧東ドイツで第2党となった。この他AfDは旧東ドイツのテューリンゲン州でも22.7%、ザクセン・アンハルト州でも19.6%という高得票率を記録した。
伝統的な大政党にとって大きな懸念の種は、AfDが東側だけではなく、旧西ドイツでも躍進したことだ。たとえばCSUの地盤であり、保守派の牙城であるバイエルン州では、AfDの得票率が4.3%から12.4%に急増した。これに対しCSUの得票率は10.5ポイントも減ってしまった。またバイエルン州の西隣のバーデン・ヴュルテンベルク州でも、AfDの得票率は2倍以上に増えて12.2%となっている。
最大の原因は難民政策
AfD躍進と、政権与党の後退の最大の原因は、メルケル首相の難民政策に対する有権者の強い不満である。15年9月にメルケル首相は、ハンガリーで立ち往生していたシリアなどからの難民ら約89万人に対して国境を開放し、EUの規定に反してドイツで亡命を申請することを許した。イギリスやフランス、東欧諸国が難民の受け入れを拒否する中、メルケル首相は人道的な理由から超法規的措置に踏み切ったのである。国内の左派勢力やオバマ政権時代のアメリカのメディア、国連の難民高等弁務官は、「メルケル首相の決断は、欧州の名誉を守った」と称賛した。だが国内の保守勢力、難民に滞在場所を提供しなくてはならない地方自治体の首長らは、メルケル首相の措置を厳しく批判した。
特に旧東ドイツでは、統一から27年経っても多くの市民が「自分たちは社会主義国の消滅で貧乏くじを引かされた」と感じて、連邦政府と旧西ドイツに対する不満を抱いている。旧東ドイツでは、統一直後に多くの国営企業が閉鎖され、多数の市民が路頭に迷った。旧東ドイツの失業率は今でも西側より高く、公的年金や基本給与、失業者への給付金は、西側よりも低く抑えられている。過去27年間に、才能のある若者を中心に多くの市民が、職を求めて西側に移住した。旧東ドイツの人口は、1990年からの10年間で、90万8000人減少した。旧東ドイツは経済的に自立しておらず、ドイツの全納税者が払う「連帯税」によって支えられている。東西間の格差は、今も歴然としているのだ。
これに対しドイツに到着した難民たちは「亡命を申請する」と言いさえすれば、申請が審査される間、国から宿泊施設、食事、衣服、医療サービスや交通費まで供与される。旧東ドイツでは、「なぜ外国人の方を、我々よりも優遇するのか」という妬みに似た感情を抱く者が少なくない。あるバスの運転手は、「ドイツ人の子どもはバスの切符を買わなくてはならないのに、難民の子どもは切符を国からもらえる。これはおかしいのではないか」と語る。ドイツ人は公平性と秩序を重んじる国民だが、多くの市民が国の難民政策について疑問を抱いている。そこでは、「着のみ着のままで戦火から逃れてきた人々に、救いの手を差し伸べる」という高邁な理念は忘れられている。
メルケル首相の「左傾化」に対する疎外感
こうした市民感情を背景に、2016年にはメルケル首相への支持率が低下し、ザクセン・アンハルト州など五つの州で行われた州議会選挙で、AfDが2桁の得票率を記録して議会入りを果たしている。メルケル首相は、旧東ドイツで演説すると、「裏切者」という罵声を浴びせられることが多い。
CSUのゼーホーファー党首は、15年に「シリア難民に対する国境開放は、大きな誤りだ」とメルケル首相を公に批判し、ドイツが1年間に受け入れる難民数を20万人に制限することを要求。しかしメルケル首相は、「憲法が規定する亡命申請権に上限はない」として、要求を頑としてはねのけ、「困っている人々を助けたことで批判されるのならば、ドイツは私の国ではない」とまで言い切った。
CDU・CSUの多くの党員にとっては、メルケル首相の難民政策は緑の党やSPD並みに左傾化したと感じられたようだ。15年以降、保守的思想を持つ多くの市民が、CDU・CSUの路線に強い疎外感を抱き、「ここは自分の居場所ではない」と感じている。
AfDは戦後レジームの解体を目指す
その心の隙間を埋めたのが、AfDである。13年に経済学者のベルント・ルッケらが結成したAfDの最大の目標は、当初ドイツのユーロ圏からの脱退と、ギリシャなど南欧諸国への支援の停止だった。
だがやがてAfDは、反ユーロ政党から極右政党に変質する。AfD党員の間には、旧東ドイツで始まった極右市民団体「先進国のイスラム化に反対する愛国的ヨーロッパ人」(ペギーダ)や、「新右翼」と呼ばれる勢力と接点を持つ党員が影響力を拡大した。ルッケら穏健派と、フラウケ・ペトリやアレクサンダー・ガウラントら右派との間で激しい路線闘争が行われた結果、15年にルッケは他の経済学者たちとともに、AfDを離党して別の小政党を作った。彼らにとって、幹部がネオナチに近い発言を行うAfDは、あまりにも右傾化しすぎたのだ。
AfDは次のような政策を提案し、ドイツの戦後レジームの事実上の解体をめざしている。
・欧州通貨同盟からの離脱。
・ドイツがユーロ圏に残留するべきかどうかについて国民投票を実施。
・ドイツ経済に貢献できる技能などを持った移民だけを選択的に受け入れる。
・外国政府の資金で建設されるイスラム寺院の閉鎖、ミナレット(イスラム教寺院の尖塔)、ムアッジン(ミナレットからスピーカーで流される祈りの言葉)、女性の全身を覆うチャドル、ブルカの禁止。