(6)市民軍の「敗北」と抗争の「完成」
5月22日から26日まで、戒厳軍は郊外にいたため、光州市内は一種の無政府状態となり市民による事態収拾策が盛んに執り行われた。市民代表、学生代表などによって収拾委員会が組織され、政府や戒厳軍と交渉にあたる一方で治安は維持された。自衛権の発動を公言した以上、戒厳軍と全斗煥の過渡政府がこのまま引き下がるはずもなかった。今後の対応をめぐって市民は「収拾派」と「抗争派」に分かれた。
当時、全南道庁の状況室(デモ指導部が集まる部屋)という最前線にいた李在儀氏はこう振り返る。「21日に戒厳軍が市外に撤収してすぐの22日に、収拾委員会が立ち上がった。全羅南道副知事がまとめ、元独立運動家など有名人士を加えてそれなりの陣容だった。後になって分かったが、これは副知事のアイデアで戒厳軍と妥協して事態を収拾しようというものだった。できすぎた話だった」。
最大の焦点は「武器の返納をどうするのか」ということだった。これは「闘いを止めるべきか、続けるべきか」とも置き換えられる。韓国最精鋭の特殊部隊が態勢を整えて再び襲いかかってくる。「勝つ」という未来図は考えられなかった。希望は韓国の他地域に光州の孤独な闘いが伝わり市民が立ち上がることと、韓国に直接的な影響力を持つ同盟国の米国がブレーキをかけてくれることだった。市民軍はそのための時間稼ぎに希望をかけた。
国内メディアが沈黙する中、海外メディアの特派員だけが命綱だった。映画『タクシー運転手』のモデルとなったドイツのヒンツペーター記者をはじめ、朝日新聞・毎日新聞など日本メディアも大いに頼りにされた。論争が続く中、光州の代表的な在野の運動家や宗教家、教授などは「若者の命を守るため」に、武装解除を呼びかけ銃器の回収を実行した。だが、抗争派は「光州市民が生き残るためには闘争の真実を守るしかない」と無抵抗のまま光州5.18を終わらせることを強く拒んだ。
抗争派の心理について、崔教授は前掲書『五月の社会科学』でこう説明する。
「個人の生命が人道主義的な価値であり、光州の市民たちを愛する人々(収拾派を指す)が守ろうとしたものだったという点を否定することはできない。だがこれは光州の市民たちを永遠に『暴徒』に押しやろうとする軍部の政治的な戦略と現実的に一致しており、抗争派の立場としては光州市民の『血を売り渡す』行為であった」
このまま引っ込んでは、5月18日からの戒厳軍の残虐行為により亡くなった人たちに申し訳が立たない、市民に非はない、ということだ。
全南道庁前では市民が集まり、決起集会や討論会を行った。こうした姿は海外メディアによってしっかりと記録された。中学生・高校生までが手にし、市民を不安がらせていた武器の回収も急いだ。25日まで4500丁余りの銃と、1000個以上の手榴弾が回収された。
その傍ら、長く民主化運動を続けてきた復学生や大学卒業生が市民軍に合流した。やはり当時を李在儀氏はこう振り返る。「23日午後、合流した人々を道庁前のYWCAビルに集め、これまでの状況を説明した。そこであくまで一連の抗争が『民主化運動のためである』ということを堅持する立場で合意ができた。24日に準備をし、25日に道庁を掌握した」。
抗争派と収拾派の争いを最終的に整理したのは、光州市内で「夜学」と呼ばれる貧困家庭への教育ボランティア事業を行っていた尹祥源(ユン・サンウォン、29)を中心とする大学生グループだった。彼らは23日に全南道庁前で「民衆守護市民決起大会」を開き抗争派の士気を高め、24日から25日にかけて全南道庁の状況室を強引に掌握した。25日の決起集会では市民軍一同による声明「なぜ銃を取るのか」が発表された。「戒厳軍の蛮行の前に、あくまで故郷を守るために銃を取った」としながら、「戒厳軍が暴徒なのか? ふるさとを守ろうと立ち上がった市民軍が暴徒なのか?」と激しく問い質した。
そして市民軍の執行部の名を「民主市民闘争委員会」に改め民主化という目的を明確に含めた。ここに空輸部隊の過剰鎮圧への抗戦から始まった光州5.18が、それ以前の民主化運動と結びついた。
民主市民闘争委員会による「80万民主市民の決議」
(1)今回の事態のすべての責任は過渡政府にある。過渡政府はすべての被害を補償し即時退陣せよ。
(2)武力弾圧だけを続ける名分のない戒厳を即時解除せよ。
(3)民族の名前で叫ぶ。殺人魔・全斗煥を公開処断せよ。
(4)拘束中の民主人士を即刻釈放し、民主人士たちで救国過渡政府を樹立せよ。
(5)政府と言論は今回の光州義挙に対し、虚偽や歪曲した報道をするな。
(6)私たちが要求するのは被害補償と連行者の釈放だけではない。私たちは真の民主政府樹立を要求する。
(7)以上の要求が貫徹されるまで、最後の一刻まで、最後の一人まで、私たち80万市民一同は闘うことをすべての民族の前に宣言する。
戒厳軍は着々と光州市内に再突入する計画を進めていた。鎮圧作戦は「尚武忠正作戦」と名付けられ、27日0時1分に作戦開始と決められた。米国(米韓連合司令官)もこれを認め、市民軍の望みは現実的に絶たれた。戒厳軍は前日26日には市民軍に作戦実行の意図を伝え、戦車は既に市内の入り口まで到達していた。市民軍もこの情報を隠さず光州市民と共有した。市民の動揺は大きく、道庁前は次第に静かになっていった。
「いいですか。韓国の民主化に影響を与え、民主主義を引き寄せられるのならば、私は私の人生を進んで放棄するでしょう。自身の信念のため、命を喜んで放棄できる光州市民たちがここにいる」。26日晩、尹祥源は外国人記者たちを前にこう語ったと、当時通訳を担当したデビッド・ドリンジャー氏は光州MBCテレビの取材で明かしている。尹祥源は「私たちが今日負けるとしても、永遠に負けはしないだろう」と抗戦の意志を改めて示した。全南道庁には200人余りが残っていた。
そして27日午前4時、第3空輸旅団選り抜きの特攻隊66人が全南道庁を一斉に攻撃した。全日ビルやYMCAなど周辺の市民軍の根拠地にも特殊部隊は押し寄せた。圧倒的な火力を前に市民軍の多くは制圧されたが、交戦のさなか発砲する機会があったというが、人を撃つ訓練を受けていない市民が兵士を撃てるはずもない。尹祥源も全南道庁別館の会議室で撃たれ息を引き取った。