2020年9月27日、旧ソヴィエト連邦(ソ連)構成国の一つであったアゼルバイジャン共和国の南西部で、大規模な戦闘が発生した。即日アゼルバイジャンは戒厳令を布告し翌日には動員令を発令、隣国のアルメニア共和国も戒厳令と動員令を発令した。戦闘は大規模な状態のまま1カ月近く継続中であり、兵士・民間人合わせて数百人の死傷者が出ている。ヨーロッパとアジアの狭間に位置するコーカサス地域で突如発生したこの大規模軍事衝突は、「アゼルバイジャンとアルメニアの間で軍事衝突」などと報じられ、国際的に大きな注目を集めている。
コーカサス地域は北をロシア、南をトルコとイラン、東をカスピ海、西を黒海に囲まれた地峡であり、中央部には北西から南東にコーカサス山脈が連なっている。山脈の北側はロシア連邦であり、南側には西からジョージア(グルジア)、アルメニア、アゼルバイジャンが位置している。今回の軍事衝突の一方の当事者であるアゼルバイジャン共和国は人口約1000万人、国土面積は8.66万km2で北海道よりやや大きいくらいである。今回の軍事衝突は、このアゼルバイジャンの南西部約1.2万km2のエリア(北海道で言えば渡島・桧山・後志地方を合わせたより少し大きいくらい、秋田県くらいの大きさ)で発生した。本稿では、このエリアを「カラバフ地方」と表記する。
アゼルバイジャンは「誰と」戦っているのか
前述の報道で見られるような、「アゼルバイジャンとアルメニアの間での軍事衝突」という表現は、実のところいささか正確性を欠いている。つまり、この軍事衝突は国家間で起きているものではないのである。より正確に言うと、アゼルバイジャン共和国は「アゼルバイジャンからの分離独立を主張するアルメニア人勢力」と戦っている。では、なぜそのような勢力がアゼルバイジャン共和国にいるのか。まずはこの点について説明しよう。
直接的な発端はソ連時代に遡る。今回の軍事衝突の舞台であるカラバフ地方は、1918年にアゼルバイジャン、アルメニアでそれぞれ民族共和国が誕生した時からの係争地であった。1920年に両国が赤軍の影響下でソヴィエト社会主義共和国となった後、カラバフ地方はロシア共産党の決定によりアゼルバイジャンに帰属することとなった。このうちアルメニア人が多く住む山岳部約4400km2を自治領域としたのが「ナゴルノ・カラバフ自治州」である。同自治州の帰属をめぐっての論争は止んだわけではなかったが、ソ連体制の下で70年近くにわたって制度は維持された。
しかしこの状況はソ連末期の1988年に大きな転機を迎える。同年2月、ナゴルノ・カラバフ自治州の最高機関である自治州ソヴィエト(ソヴィエトとは本来ロシア語で「評議会」「会議」を指す)が、同自治州のアルメニアへの帰属変更を求める決議を採択したのである。それまで抑えられてきた帰属変更要求が自治州の最高機関で決議されたことで、問題は一気に深刻化した。これ以降、アゼルバイジャンとアルメニアの各地で民族間の衝突が大規模化する一方、ソ連体制は問題解決に有効な策を打つことができずにその権威を失墜させ、代わってアゼルバイジャン・アルメニア両国で民族主義勢力が政治的主導権を握るようになっていった。
1991年になり、ソ連そのものの消滅が現実的なものとなってくると、ナゴルノ・カラバフ自治州のアルメニア人勢力は9月に独自の共和国「アルツァフ共和国(別名ナゴルノ・カラバフ共和国、「アルツァフ」は古代アルメニア王国時代の地域名とされる)」成立を宣言した。12月には独立を問う住民投票を実施し、翌1992年1月初めに独立を宣言した。アゼルバイジャン共和国は対抗措置として自治州自体を廃止することを議会で決議し、アルメニア共和国の支援を受けた分離派とアゼルバイジャンとの間で全面的な武力紛争に発展した。これが狭義の「ナゴルノ・カラバフ紛争」である。
紛争は1994年春までにアルメニア共和国の支援を受けた分離派が旧ナゴルノ・カラバフ自治州領域だけでなくその周辺地域も含めた約1.2万km2のエリアにまで実効支配地域を拡大し、同年5月にロシアの仲介で停戦した。この紛争で、カラバフ地方とアルメニアから100万人近いアゼルバイジャン系住民が、アゼルバイジャン各地から約30万人のアルメニア系住民が、居所を追われて難民・国内避難民となった。狭義のナゴルノ・カラバフ紛争は全面的な武力衝突が停戦した1994年5月までだが、これ以降も停戦合意は維持されつつ散発的な衝突は繰り返されてきた。こうした状況で第三国の仲介による和平交渉がずるずると続く中、アルメニア人分離派がアゼルバイジャン南西部を実効支配する状況は近年まで固定化されてきた。広義には、この「戦争でもないが平和でもない」状態も含めて「ナゴルノ・カラバフ紛争」と呼ぶ。紛争の火種は完全には消えず、くすぶり続けていたのである。
アルメニアの支援
カラバフ地方のアルメニア人勢力単体では、軍事面はもちろん、政治的経済的にも紛争を継続することは不可能であった。このため、紛争の最初期からアルメニア共和国の全面的支援を受けていた。アルメニアにとってカラバフ地方は、ソ連体制下で抑え込まれていた民族自決をより完全な形で実現する場であり、同地の帰属をめぐってソ連体制下で繰り広げられてきた歴史論争により「聖地」と化した「未回収の地」であった。1994年の停戦までは、「義勇大隊」といった非正規の形で数多くのアルメニア兵がカラバフ地方の戦場に赴いた。